5月24日『返却期限のない本』
日曜日の朝。
隣の鍛冶工房は休みで、槌音が聞こえない。この日だけは図書館が本当に静かになる。書架の木が軋む音と、窓の外で鳥が鳴く声。それだけの朝。
返却箱を開ける。昨晩の閉館後に入れられたらしい本が一冊。……見覚えがない。
革装の手製本。背表紙に題名はなく、蔵書印もない。台帳を繰ったが該当なし。貸出記録にも寄贈記録にも、この本は存在しない。
検分する。紙質と糊の劣化から少なくとも数十年は経っている。実用を旨とする、この街の製本職人の仕事だろう。ごく少数だけ刷られた私家版と思われる。
中身は手書きの年代記だ。ある職人一家の――工房の創設、技術の伝承、取引先との関係。後半にはクリスタルの精錬工程や専用炉の構造図が図入りで記されていた。
だが、異様な点がひとつあった。登場人物の名前がすべて、丁寧に塗り潰されていた。一族の名、取引先の名、地名や通りの名前すらも。残っているのは出来事と数字だけだった。
裏表紙との間に、小さな隠しポケットがあった。中には薄い紙片が一枚。
――私たちはもう透明になれたのでしょう。どうかこの本を、あるべき場所へ。
署名はなかった。
◇
昼前のこと。
「今日は静かですな」
声がして顔を上げた。青白い肌、首筋の鰓のような器官、海藻のように垂れた深緑の髪。数か月前から不定期に通う『あの方』だ。
「おやまあ、珍しいものをお持ちで」
本を手に取ると、塗り潰された名前の箇所で長い指を止めた。腕の内側で、吸盤のような器官がかすかに蠢いた。
「……このインク。本文は鉄胆インク。しかし名前を消しているのは没食子インク。……書いた者と消した者が違う。なぜだと思いますかな? しかも丁寧に、一つひとつ。これは憎悪ではない。……義務として」
次に、後半の精錬炉の構造図を開いた。
「精錬ですな。クリスタルは採掘されたままの状態では不純物が多い。精錬して初めて動力源にも道具にもなりうる。……しかしこの炉の構造。ここに記された手順は、学院の基礎課程そのものではありませんかな」
「ええ。そのようですね」
「それに――家族の記録にしては数字が多すぎる。クリスタルの納入量、精錬の記録、炉の改修費用。……これは清算書。功績と損害の目録」
大仰に両腕が広がった。
「矛盾!虚構!隠蔽!」
「……さて、どちらが嘘をついているのでしょうなあ」
「調べてみます」
「おや。行動が早い」
「司書ですから」
◇
三階。技術書専用区画。日曜は利用の申し出が数人しかない。
年代記に記された精錬技法を、学院の加工手引書と並べた。精錬炉の構造、温度管理の手順、仕上げの工程――ほぼ同一だった。年代記の書き手は、この技法の原型を知っていた人間なのだろう。
技術学院の設立記録には、精錬技術の功労者として三つの工房の名が挙がっていた。しかし、この年代記に該当するような記述はどこにもない。
工房登録簿。ある年度を境に一つの工房が消えていた。抹消ではなく、届出が途絶えた形で。学院の設立からそう遠くない時期だった。
最後に、教会の資料。この街の二つの教派。技術と努力を柱とする教派と、生まれ持った力を神授と仰ぐ教派。普段、この二つが歩み寄ることはほとんどない。しかし、だからこそ、古い議事録の中に見つけた文書は異様に思えた。
『クリスタル精錬技法の管理に関する合同決議』――二つの教派の連名。『交渉経過』という項目。別綴じの詳細は見当たらなかったが、結語にはこうあった。
――当該工房の名を以後の公式記録より除くことをもって、本件の決着とする。
◇
報告を聞き終えたその方は、合同決議のくだりで笑みを消した。
「……よほどのことですなあ」
沈黙のあと、ゆっくりと言った。
「おそらく、この一族は学院の礎を築いたのでしょう。しかし、相容れない教派が手を組んでまでその技術を欲した。……一族の功績を消し、別の名前で歴史を書き直した。……時代の影ですな」
「ただ、どうやら、名前を消したのは教派だけではないようです。年代記の名前を塗り潰したのは――おそらく一族自身です。……名前を差し出す代わりに、暮らしを守る取引があったのではないかと。そう推察します」
「……自ら影を買って出たのだと?」
長い沈黙があった。
「見えない者が懸命に働いている。技を伝え、炉を改良し、弟子を育て――しかし功績は常に別の名前で記録され、歴史となる。……実に残酷ですなあ」
「……あの手紙には、『透明になれた』とありました。透明であることを望んだのか、受け入れたのか。あるいは――」
「『両方』でしょうな。差し出すことと受け取ることは、ときとして同時に起きるもの」
◇
「しかし、晴れぬ疑問が一つ生まれますな。なぜ、今になって返却箱に――」
沈黙。
「この本は台帳にありません。蔵書番号もない。でも――ここに在れば、いつか誰かが手に取ります」
「……しかし、この本の価値を証明する者は、もうどこにもいないでしょう?」
「この本自体が証明です。名前がなくとも、歴史はある。精錬の工程、炉の構造図、黒塗りの年代記。……誰が書いたかはわからなくとも、何が為されたかは読み取れます」
「……実に司書らしい結論ですなあ」
その方が立ち上がった。何か言いかけて、やめた。青白い姿が書架の影に消えていく。
「ふふ。では、また」
◇
閉館後。
私は新しい蔵書カードを取り出した。
題名――不明。著者――不明。寄贈年月日――五月二十四日。蔵書番号を振り、郷土資料室の書架に並べた。
備考欄には少し迷って、一行だけ書き添えた。――返却期限なし。




