5月23日『賑やかな処方箋』
土曜日の朝は、窓を開けるところから始まる。
新緑の匂いと、遠い鍛冶場からかすかに届く鉄の匂い。中庭のほうにはマリアさんとミーアさんの気配。穏やかな一日になる――はずだった。
「――いい匂い!」
扉をくぐった瞬間、その人は立ち止まった。目を閉じ、深く息を吸う。三角の耳がぴんと立つ。私が声をかける前に、彼女はもう書架の間へ消えている。
目を閉じたまま、何かを見ている顔だった。
◇
追いついて名前だけは聞き取れた。
ニッカ。調香師の見習いで、鍛冶祭の新作のために調香記録を探しているらしい。らしい、というのは、自己紹介の途中で「あ、この棚すっごい鉄の匂いするんですけど」と意識が逸れてしまったからだ。
私が館内の案内を始めると、事態は加速した。
一階の手すりを撫でて「蜜蝋で毎日磨いてるでしょこれ。層が均一だもん」。
窓枠に鼻を近づけて「三日以内に亜麻仁油差したよね」。
書架の裏を覗き込んで「防虫の白檀、棚ごとに量変えてる。風通し計算してるんだ」。
誰にも気づかれたことのない仕事ばかり。少しだけ誇らしかった。
「さっきパン食べましたよね。小麦と塩バターの匂いがカウンターの下に」
……そこまでは気づかれたくなかった。少しだけ後悔した。
◇
二階で彼女の足が止まる。
「あ、ごめん――でもこれすごくない? この棚、塩と鉄の匂い。涙の痕だ」
押し退けられた常連が固まった。
「しかもこの一冊だけ違うよ。鍛冶の人の手だ。お父さんが子供のために絵本探したんだね、きっと――」
三階への階段の途中で「典型的な持続性ウッディ・メタリックですね」と言われた。
よく分からないけど、私はとりあえず頷いた。閲覧席の常連が一緒に頷いているが、おそらく誰も分かっていない。通りがかりの来館者が「ああ、それね」と相槌を打ち、ニッカさんが食いついた瞬間、逃げるように足早に去っていくのが見えた。
三階の技術書区画に入った途端、耳がぴくりと動いた。
「……雷の匂いだ。金属が帯電した後の。それと少し湿っぽい匂い」
少し黙った。
「知り合い?」
「……ええ、まあ」
「ふうん。層が厚いね。何度もここで一緒にいたって感じ。一体どういう関係の――」
調香記録はこちらです、と歩き出す。切り替えの早い人で、素直についてきた。
◇
郷土資料の一角。古い工芸記録をめくりながら、ニッカさんは同じ調子で独り言をつぶやき続けていた。
――と、急に静かになった。
気になって振り返ると、三角の耳が前に倒れている。今日初めて見る姿勢だった。
二百年前の伝説的な調香師アマーリエの処方箋帳。その『図書館』と名付けられた一ページ。材料欄には『古紙、蜜蝋、杉材の削り粉、午後の窓辺の陽――代用として乾燥白花弁』。
隅に小さな走り書き。
『――この場所の匂いを瓶に閉じ込めておきたい。しかし匂いは時と共に変わる。今日の図書館は明日の図書館ではない。ならばこの処方箋は、永遠に未完成である』。
ニッカさんの声が、初めて普通の音量になった。
「……師匠に言われたんだ。街の匂いを作れって。でも毎日違うから、どの日を選べばいいか、ずっと迷ってて」
指先が走り書きに触れている。
「こんな人でも迷ってたんだ。……すごい。二百年前に」
それからニッカさんは姿勢を正し、私の口調を真似てみたりもした。
「あちらの棚に郷土資料がございます」
「ええ、ありがとうございます」
三秒ともたなかった。
隣の革装丁に鼻が吸い寄せられ、「あ、ごめん――でもこれすごくない? 嗅いでみて?」。
差し出された背表紙からは古い革の匂いがした。
「今、ちゃんとしてたよね? あたし」
私は答えに困った。
◇
試香紙を取り出そうと、鞄からカウンターに様々な物を並べていく。十数本の精油が入った小瓶、鍛冶場用の鼻栓、携帯蒸留器の部品、よくわからない紙きれの束に空き瓶がたくさん。「いつか使うかもしんないじゃん」。閲覧席の常連が呆然と見ていた。
ニッカさんは、館内の各所で匂いを試香紙に移し取り、一枚ずつ名前を書いていった。
『鉄と紙』『潮と蜜蝋』『杉と双葉』。
「……名前つけないと忘れちゃうんだ。匂いは目に見えないでしょ。言葉にしないと、ここにあったことすら分かんなくなる」
名前をつけなければ、あったことすら分からなくなる。――それは書物が在る理由そのものに思えた。
「あの、中庭には――」
制止は間に合わなかった。マリアさんの手を取り、「ごめん、急に――でもこれすごくない? 砂糖と香草のお菓子の匂い、何年も層になってる」と声を弾ませている。
マリアさんはにこにこしたまま、ポケットから砂糖菓子をひとつ差し出した。ニッカさんはまず丹念に嗅いで、それから食べた。
「あっ。これおいしい!」
◇
帰り支度を始めたニッカさんが、処方箋帳を丁寧に棚へ戻す。本の扱いだけは最初からずっと丁寧だったことに、今さら気づいた。
「ありがとうございました。その……ご迷惑おかけしまして」
「いえ……楽しかったですよ」
カウンターに試香紙が一枚、置かれた。
「朝の図書館の匂い。第一稿、ってね。まだ全然完成じゃないけど」
◇
扉の向こうから「来月も来るから!」と声が届く。
閲覧席の常連が、ほっとしたように肩の力を抜くのが見えた。
試香紙を鼻に近づけた。古い紙と蜜蝋、かすかな杉。そこに精油と革鞄と砂糖菓子――そして、あの人自身の匂いが、もうひとつ重なっている。知っているはずのこの場所の、知らないページだった。
この匂いもいつかは変わる。
けれど、あの人が残した賑やかさだけは、しばらくこの場所に残るのかもしれない。




