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5月22日『声の届く距離』

挿絵(By みてみん)

 金曜日の午後は、図書館がいちばん穏やかな顔をする。


 鍛冶工房の槌音がいつもより軽い。週末前は早仕舞いの職人が多いのだ。窓際の棚に並んだ二つの貝殻が、西日を浴びて薄く光っている。カウンター脇の植木鉢は少し背丈が伸び、三枚目の葉を芽から覗かせていた。毎日見ているのに、伸びる瞬間だけはいつも見逃す。


 入口に、見慣れないものがあった。


 大きな剣だった。柱に立てかけられた両手剣で、柄が私の胸のあたりまで届いている。刃は革の鞘に収められていたが、鉄の重みが目に見えるようだった。


 持ち主は、一階の書架の前にいた。


 がっしりとした体格の若い男だった。首が太く、肩幅が広い。軽装だが、身体の作りが前線の人間のそれだ。書架を前にして、まるで敵と対峙するかのように背筋を硬くしている。


 本の背表紙を見ている。だが手を伸ばさない。


 ふと、彼が鼻をひくつかせた。古い紙と革表紙の匂いを嗅ぎ取っているのだろう。初めての場所に踏み込んだ者が、まず空気を確かめるときの仕草だった。


 その目が一瞬、棚の一角で止まった。武術書の並ぶ区画。『戦闘術指南・近接剣技篇』。太い指が動きかけて、止まる。――自分のために来たのではないのだろう。


 私は声をかけることにした。


           ◇


「何かお探しですか」


「……いえ。ただ、その。本を」


「本を?」


「……読みたいと。思って」


「まあ、それは。図書館にとって一番ありがたいお客様です」


 彼が少し戸惑ったように顔を上げた。


「どんな本を読みたいか、何かご希望はありますか」


「……わかりません。本は、あまり読まないので」


「読んだことがないということは、何を読んでも新鮮ということです。羨ましいくらいです」


 太い首が、かすかに傾いた。


           ◇


「お一人で読まれますか」


 彼は少し黙った。喉仏がわずかに動く。


「……一人では、ないかもしれません」


 それ以上は聞かなかった。


「では、声に出して読むといい本を選びましょう」


 棚に案内しながら、一冊目を抜いた。短い寓話集。


「この中の一篇に『嘘つき村』というお話があります。村人が全員嘘つきで、旅人が誰の言葉を信じればいいか分からなくなる話です」


 彼の眉がわずかに寄った。


「声に出して読むと面白いですよ。聞いている人が、先に答えを当てようとしますから」


「……嘘つきが自分は嘘つきだと言ったら、それは本当なんですか」


 真剣な顔だった。


「それは読んでからのお楽しみですね」


 私は二冊目を抜いた。『銀の鳥と金の森』。


「重たい日には、軽い話のほうが丁度いいものです。――子どもの本ですが、大人が声に出すとまた違った味があります。言葉が平たくて、つっかえにくいので」


 三冊目は風景を詠んだ短い詩集。


「こちらは言葉が少ない本です。行と行のあいだに間がありますから、沈黙が気にならない」


 彼は三冊を受け取り、寓話集を開いた。一行だけ目で追って、閉じる。


「……声に出すのは。恥ずかしくないですか」


「上手に読む必要はないですよ」


 彼の目がこちらに向いた。


「むしろ慣れていない人が読むほうが、聞いている人は安心します。上手すぎると、聞くほうも構えてしまうのです。つっかえたり、読み間違えたりするくらいが丁度いいんです」


 肩から、少しだけ力が抜けたのが見えた。


「それに――聞いている人は、内容よりも声を聞いているものです」


 一拍、置いた。


「何を読んでいるかではなく、誰が読んでいるか。大事なのはそちらのほうだと、私は思います」


           ◇


 貸出手続きの間に、彼がぽつりと言った。


「同期の……仲間が。起きてるのに、何も言えなくて」


「はい」


「見舞いに行っても、ただ座って。帰るだけで」


「……ええ」


「何か持っていきたかった。けど――花は、駄目だって言われました」


 熱病の結晶患者には生花は禁忌だ。花の代わりになるものを、探していたのだろう。


 私は貸出カードにペンを走らせながら言った。


「花が駄目なら、本は良い贈り物ですよ。枯れませんし、それほど重くもありません。……返却期限はありますけれど」


 彼がわずかに目を上げた。


「……その方は。あなたが来るのを待っているのだと思いますよ」


「……え?」


「何を持っていくのかではなく。あなたが来ること自体が、その方にとっては」


 太い指が本の表紙をぎゅっと握った。顎が下がり、しばらく動かなかった。


「……ありがとう、ございます」


 私は本に貸出票を挟んだ。


「いいえ。本を選ぶのは、私の仕事のなかでもいちばん好きなことですから」


           ◇


 彼が扉に向かった。三冊の本を胸に抱えている。


 入口で大剣を取り上げる音がした。革と鉄がこすれる、重い音。背に担ぐまでに少し間がある。まだ身体に馴染みきっていない重さなのだろう。


 扉が閉まる直前、外から声が聞こえた。


「遅いよ。みんなもう酒場だ」


「すみません、隊長」


「何借りた?」


「……寓話と、絵本と、詩です」


「へえ」


「……俺も、行った方がいいですか。酒場」


「誰に読むか知んないけど、酒臭い息で読んだら怒られるんじゃない?」


 足音が二つ、遠ざかっていく。


 窓から見た。二人の後ろ姿が、夕方の通りを歩いている。片方は背中に大剣を担いでいる。もう片方は腰に拳銃を下げて、壁から身を起こしたところだった。大きな刃と、小さな銃。重い鉄と、軽い鉄。


 拳銃のほうが歩調を落としている。大剣を担いだ若い隊員の歩幅に、合わせていた。


           ◇


 カウンターに一枚の紙が残されていた。討伐隊の巡回報告書だ。


 かすかに匂いがした――ような気がした。革と鉄。それから、私には嗅ぎ分けられない匂い。だが、あの若い隊員には、この紙に染みついたものだけで仲間の顔が浮かぶのかもしれない。


 裏返すと走り書きがあった。


 『ディルクへ――』。


 その先は消してある。消した痕が、紙に深く沈んでいた。

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