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或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
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4月7日『十九ページ』

挿絵(By みてみん)

 見慣れない男性がカウンターに立っていた。


 垂れかけた長い耳、灰色がかった白い体毛。長命な種族だ。外見からは歳の頃が分からない。書類仕事に慣れた細い指。職人の手ではない。背が高く、少し猫背で、外套の裾が雨に濡れていた。


 どこかで見た面影がある。耳の垂れ方が、あの老人と同じだった。


「すみません。父の遺品を整理していたら、これが出てきまして」


 差し出されたのは、古い貸出証だった。


 私は息を呑む。あの老人の息子だ。


「父は……ここに通っていたのでしょうか」


「ええ。毎週火曜日に。私がここに来るより、ずっと前からです」


           ◇


 私は彼を、父親の席へ案内した。


 窓際、書架の角、少し奥まった場所。午後の光が斜めに差し込む、静かな一角。椅子の肘掛けの木が、片側だけ色が濃くなっている。


「いつもここに座って、同じ本を読んでいらっしゃいました」


 書架から一冊を取り出す。『金属結晶加工法――師伝の記録』。何十年も前の工芸書だ。背表紙は色褪せ、角は丸くなっている。


「この本を、毎週借りて、毎週返して。でも、読み進めることはありませんでした」


「読み進めない?」


「ええ。栞は、いつも同じ場所でした」


 本を開く。十九ページ。余白に、薄い鉛筆の文字がある。小さく、几帳面な字。


 『十九』『ここまで』。


 文字の横に、小さな刻印が押してある。二つの槌が交差した意匠。


「この文字と刻印は、お父様のものではありません。一度だけ、お父様が話してくださいました」


 私は窓の外を見ながら続ける。


「幼馴染の方と、一緒にこの本を読んでいたそうです。交代で借りて、読んだところに印をつけて。『読み終わったら、一緒に工房を開こう』。それが、二人の約束だったと」


「その人は」


「お父様より先に、亡くなったそうです」


 息子は黙って、十九ページの文字を見つめている。


「お父様は、その先を読めなかったのです。読み終わったら、約束が終わってしまうから」


           ◇


 長い沈黙があった。


 やがて息子が口を開く。


「……父は、家では何も話さない人でした。無口で、頑固で。俺が商会の帳簿係になると言ったとき、何も言わなかった。父の仕事を継がなかった。職人にもならなかった。それでも、反対も賛成もしなかった」


 息子は本を閉じる。


「冷たい人だと思っていました。母が亡くなったときも、泣かなかった」


「……」


 息子は鞄から、小さな金具細工を取り出した。繊細な透かし彫り。鳥の形をした、手のひらに収まる玩具。


「娘の誕生祝いに届いたものです」


 息子が玩具を裏返す。二つの槌が交差した刻印。


「父が作ったものだと思っていました。でも、父は職人ではなかった」


 私は本の十九ページを開く。同じ刻印。


「友人のものだったんですね。父は、友人が作ったものを、ずっと持っていた。そして、孫に贈った」


           ◇


 息子は目を細める。


「昔、一度だけ。父がこの刻印を指でなぞっていたのを見たことがある。何をしているのかと聞いたら、『友の印だ』とだけ」


 息子は玩具を手の中で転がす。


「この鳥、子供の頃から気になっていたんです。どこか、仕掛けがあるような」


 何気なく、息子は玩具を本の上に置いた。刻印と刻印が重なる。


 淡い光が、二つの刻印の間を走った。


 微かな音がして、玩具の胸の部分がゆっくりと開く。


 中から、薄い金属の板が滑り落ちる。小指ほどの大きさ。


 栞だった。本に挟む金属製の栞だ。上部に、紐を通すための小さな穴が空いている。端に二つの槌が交差した刻印。表面に、細かな文字が刻まれている。裏と表に、二種類の筆跡で同じ言葉だった。


 『ここから』。


 息子は長く、片方の文字を見つめている。やがて、指先で文字をなぞる。ぎこちない刻み跡。職人の手ではない。


「これは……父さん」


 私は何も言わなかった。


           ◇


 長い沈黙があった。窓の外で、どこかの工房の炉が閉じる音がした。


 息子は栞を持ったまま、本のページをめくった。二十ページから先に、二人の文字はない。白い余白だけが続いている。最後のページで、手が止まった。


 鉛筆の文字があった。小さく、几帳面な字。私も初めて見る。


 『貸出証は鞄の底にある』。


「はは。……最初から仕組んでたってわけだ」


 私は何と答えるべきか、少し迷った。


「お父様は、言葉にするのが苦手な方だったようですね」


 息子が顔を上げた。何かを思い出している目だった。


「……昔からそうでした。迎えに来ないくせに、帰り道だけは教えてくれる。言葉じゃなくて、地面に矢印を描いて」


 息子は笑った。目が赤いまま、笑った。


「親子で同じだ。言葉が足りないところが」


           ◇


「この本を、借りてもいいですか」


「もちろんです」


 貸出手続きをする。息子は栞を十九ページに挟んだ。表が友人の字、裏が父の字。二人の『ここから』が、同じページで重なった。


「続きは、まだ読みません」


 本を抱えて、息子は父の席に戻る。十九ページを開き、金属の薄板をその上に置く。


「でも、たまにここに来ようと思います」


「火曜日に」


「ええ。火曜日に」


 窓の外、春の風が吹いている。桜はもう散って、若葉が芽吹き始めていた。


 息子が呟く。


「……父さん。ちゃんと届いたよ」


 三人目の男が、同じ席に座っている。


 本は、十九ページで開かれたまま。金属の栞が、静かに光を受けている。

制作メモ:AIから伏線回収の提案があったので採用した回。

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