4月6日『炎と紙』
その日の朝、私は王立図書館を訪れた。
本のある場所には近づかないと決めていた。なのに、なぜ来たのか分からない。冒険者の装備は宿に置いてきた。今日は、ただの来館者として入りたかった。
扉を開けると、懐かしい匂いがした。紙と、インクと、かすかな埃。
天井が高い。石と木で組まれた広間に、書架が整然と並んでいる。窓から差す朝の光が、空気中の細かな埃を金色に浮かび上がらせていた。懐かしい、と思った。子供の頃に通った図書館とは規模が違うけれど、匂いはあの頃と同じだ。
子供の頃、よく母に連れられて地元の図書館に通ったものだ。
私は本の匂いが好きだった。ページをめくる音が好きだった。物語の中に沈んでいく時間が、何より幸せだった。
二階の閲覧室は静かだった。窓際の席に座り、書架を眺める。窓の外、工房街の煙突が何本も見えた。どこかの炉が動いている。煙が薄く立ち上って、春の空に溶けていく。
母は図書館の写本係だった。祖母も同じ仕事をしていたという。私にもその血が流れていると、ずっと信じていた。
――この力さえ、なければ。
◇
十八歳の春、私は本に関わる仕事に就きたくて、地元の図書館の門を叩いた。胸には祖母の写本を抱えていた。『銀の鳥と金の森』――これが私の原点ですと、面接で見せるつもりだった。
その機会は来なかった。
「能力はございますか」
「……炎です」
面接官の表情が曇った。
「……図書業務には不向きかと。紙は燃えやすいものですから」
図書館を出て、人気のない路地裏に立ち尽くした。石壁が頭上から影を落としていた。悔しさが、悲しさが、胸の奥で渦を巻いた。
気づいた時には、抱えていた本から煙が上がっていた。青い革表紙が黒く縮んでいく。表紙の鳥が最後に一度だけ光り、燃え上がって消えた。
炎は私の感情に呼応して、強くなるばかりだった。通りがかりの誰かが水をかけてくれた時には、もう遅かった。
三代にわたって受け継がれてきた本は、私の手で、灰になった。
帰宅した私を見て、母はすべてを悟ったようだった。泣いていた。でも、私を抱きしめてくれた。
「灰になっても、物語は消えないわ。私の中に、あなたの中に、ずっと残っているから」
◇
あれから十四年。私は冒険者になった。炎の力は戦いには役立つ。本には関わらなかった。
先月、長年の仲間が引退した。
「もう十分だ。残りの人生は、別のことがしたい」
あいつの、その言葉が頭から離れない。私は――何がしたいのだろう。
「何かお探しですか」
背後から声をかけられた。振り返ると、司書が立っていた。足音がしなかった。床板の軋みを避けて歩いている。図書館では静かに歩くものだが、これはそういう類の静かさではない。
「いえ……少し、考え事を」
司書は何も言わず、一冊の本を私の前に置いた。
青い革表紙。銀の箔押し。鳥の絵。十四年前に掌の中で黒く縮んだ、あの表紙。
息が止まった。
『銀の鳥と金の森』。祖母の写本ではない。装丁が少し違う。
恐る恐る指を伸ばした。表紙に触れる。冷たくて、乾いていて、少しざらついている。
燃えない。大丈夫だ。震える手でページを開いた。
「むかしむかし、銀の羽根を持つ鳥がいました――」
母の声が聞こえた気がした。文字が違う。筆跡も違う。けれど――。
視界がにじんだ。本を濡らしてはいけない。慌てて目を拭う。
「この本は……いつからここに?」
「記録によりますと、五十年以上前から所蔵されております」
「五十年……」
「以前、よくお読みになっていた方がいらしたようです」
司書は本の背を指した。革が擦れている。何度も手に取られた痕だ。
「その方がどなたかは分かりません。ただ、大切にされていたのだろうと」
祖母かもしれない。根拠はない。でも、そう思いたかった。
母の言葉が蘇る。
『――灰になっても、物語は消えないわ』。
本当だ。ここにある。誰かに大切にされながら、ずっと守られてきた。
◇
私は貸出カウンターへ向かった。
「この街で、本に関わる仕事について調べたいのですが」
「どのようなお仕事をお考えですか」
「……分かりません。ただ、本と関わりたいと」
「製本、装丁、写本、販売、蒐集……様々な形がございますね」
司書がいくつかの資料を出してくれた。その手は細いが、指先に古い胼胝がある。紙を扱う手ではない。剣か、槍か。袖口からも古い傷痕が覗いた。獣の爪による傷だ。私の腕にも、似たような痕がある。
「炎属性にも、できる仕事はあるでしょうか」
司書は少し間を置いた。それから、静かに答えた。
「生まれで決まるものではないと、私は思っております」
図書館を出ると、春の風が吹いていた。鍛冶街の炉の煤けた匂いが混じっている。
そう。灰の下から、芽が出る季節だ。




