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5月19日『悪くない』

挿絵(By みてみん)

 火曜日の修復屋が帰る。


 定期修復の五冊を終えたザルツさんが、道具を仕舞い始めていた。骨ベラを布で拭き、刷毛を揃え、道具袋の口を閉じる。細い指の甲に、作業台の灯りが硬く反射した。


 持ち手だけ色の変わった革の袋。先週まで、別の手が握っていたもの。


「お疲れさまでした」


「……じゃあ」


 立ち上がり、袋を肩にかけたとき。正面扉が開いた。


 大きな影。分厚い肩幅。エプロンに金属粉がついたまま。太い指で一冊の本を掴んでいる。背が外れ、表紙が半分垂れ下がっていた。


「おい。……これ、直せるか」


 カウンターに本を置いた。――叩きつけた、というほうが近い。


 本を受け取る。革表紙は手脂で黒光りし、金属粉がページの隙間に入り込んでいた。鍛造の手引書のようだ。


「ずいぶん使い込まれていますね」


「五十年だな。親方に貰ったものだ」


「修復が必要です。うちの修復士に――」


 ザルツさんを見た。薄い色の瞳が、瞬きもせずにこちらを見つめ返した。老職人が一瞥する。


「……若いな。できるのか」


 ザルツさんは、答えなかった。道具袋を下ろし、再び作業台に置いた。道具を並べ始める。


 それが返事だった。


           ◇


 本を手に取り、指を革の上に滑らせていく。老職人の手脂で黒光りする革に、体温のない指が這う。背の部分で少し長く留まる。


「……糊が硬化しています。革に食い込んでいる」


 指で触れただけで。


「木工用の膠を使った。悪かったな、だから来たんだ」


 膠の除去に入った。骨ベラを出すが、すぐには使わない。掌を背に当てて、しばらく、そのまま……。


「おい、削るんじゃないのか」


「……」


「膠が食い込んでるんだ。刃物とか、ヘラで――」


「……」


 何かが変わった気がした。硬く乾いていた膠の表面が、わずかに光沢を帯びている。指がゆっくり動き始めた。膠をヘラではなく指先で剥がしていく。指先だけが動いて、手首から先は揺れない。


「何をしている」


 声が低くなった。文句ではない。初めて、訊いている。


「……古い糊を取っています」


「見りゃわかる。だが道具を使っていないぞ」


 ザルツさんは答えなかった。老職人が一歩、前に出た。太い指が作業台の縁を掴んでいる。爪だけが短く整えられた手。ザルツさんの爪も短い。ただし整えたのではなく、もともとそういう形をしているのだが。


「……その刷毛、柔らかすぎないか」


 口出しが続く。刷毛の角度。糊の量。ヘラの当て方。……ザルツさんは何も変えない。


 老職人の声は太く、途切れない。ザルツさんの手は細かく、止まらない。口の意地と、沈黙の意地がぶつかり合う。ザルツさんの手は揺れなかった。


           ◇


 老職人が「聞いてるのか」と繰り返した。


 ザルツさんが初めて顔を上げた。手を止めず、目だけを合わせて。窓からの光が横顔に当たって、頬が一瞬だけ鈍く光った。細かく、硬く、並んだ鱗。何も言わない。


 老職人の口が閉じた。鼻を鳴らし、腕を組んだ。それきり黙った。


 窓の外から鍛冶の音が戻ってきた。この男が来てから消えていたことに、今になって気づく。


 接着剤を背に塗り、薄紙を挟み、両掌で包む。掌を離すと、薄紙はもう動かない。老職人は腕を組んだまま、その手元を見ていた。口は出さない。でも、目は離さない。


 綴じを解いたとき、ページの間から小さな金属片がこぼれ落ち――カチン、と硬い音がした。


 老職人が拾い上げる。太い指に、錆びた小さな欠片。釘の頭が、打ち損じの形に歪んでいる。太い指がその錆をゆっくり撫でた。


「……あいつが最後に打ったやつだ」


 それが誰のことか、訊かなかった。本に挟んで五十年持ち歩く相手が、ただの知人であるはずがない。老職人は鼻から息を抜いた。笑いでも怒りでもない。五十年前に預けた何かを、もう一度手にしたときの呼吸だった。


「……戻しますか」


 ザルツさんが訊いた。


「ああ。戻してくれ」


 鉄片を元のページに挟み、修復を続けた。最後に歪んだ背を両手で挟む。革が、思い出すように、五十年前の曲線に戻っていった。


           ◇


 老職人が本を受け取った。開いて、閉じて、背を確かめる。革が鳴る。五十年の手脂が染みた革は、新しい綴じの中で前と同じ音を出した。太い指が背を撫でた。さっき鉄片を撫でたのと、同じ手つきだ。


「……悪くない」


 それが、この人の言葉の全部だった。


「費用はかかりません。図書館の修復業務の一環ですので……」


 老職人は何か言いかけて、やめた。本を脇に挟み、出口へ向かう途中で足が止まった。振り返らずに言った。


「――タダは嫌いだ」


 扉が閉まった。大きな背中が工房の方角へ消えていく。工房の音に足音が混ざって、やがて溶けた。


 ザルツさんが道具を片付けている。


「大変でしたね」


「……いや」


 少しだけ間があった。


「……口の多い人は、慣れてるんでね」


 それだけ言って、道具袋を肩にかけた。持ち手を握る手が、さっきまでより少しだけ自然に見えた。


 修復屋が帰る。来たときと同じように、一人で。

【ヤシュフェ族】

挿絵(By みてみん)

屈強な巨体と旺盛な生命力を持つ種族。感情が昂ぶると体の各所が角質化し、角状の武器となる。格闘家や用心棒、肉体労働者に多い。食と宴を愛する豪快な気質。

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