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5月20日『五月の栞』

挿絵(By みてみん)

 鍵を回す。扉が小さく軋む。


 一階の窓を開ける。


 五月の朝が一息に流れ込んでくる。若葉の匂いと水を含んだ土の匂い。鍛冶工房はまだ始まっていない。朝はいつもこの静寂から始まる。


 返却箱を確認。昨日の返却は三冊だ。いつもの手順で記録と照合していくと、三冊目に薄い革の栞が挟まっていた。端に緑青が浮いた、小さな真鍮の留め具がついている。きっと長く使われてきたものなのだろう。持ち主に心当たりはない。


           ◇


 書架の整理のため、二階へ向かう。


 児童向けの棚で、一冊が飛び出している。鍛冶師が炎に向かう見開きが印象的な、古い職人を描いた絵本だ。ページの間から、かすかな金属粉がこぼれた。 


 何度も開いたのだろう。あの人が手に取ったとき、研磨台の匂いが指先から立ちのぼっていたのを覚えている。あの人にとってこの絵本は、物語ではなかったのかもしれない。


           ◇


 三階。技術書区画の点検に上がる。


 先日の閲覧記録を見返した。「閲覧目的」欄に「時計機構の関連」とある。丁寧に書こうとして力が入りすぎた字。筆圧の跡が二枚目にまで透けている。


 四階への扉。封印に変わりはないが、扉の前の石床にかすかな靴跡が残っていた。掃除をすれば消える程度の、薄い痕だ。……あの人は、また来るのだろうか。


           ◇


 昼の閲覧室。


 利用者はまばらで、窓からの光が埃の粒子を白く浮かべている。


 窓際の棚に、二つの貝殻が並んでいる。あの二人が置いていった贈り物だ。帰り際、棚の前で少し迷ってから貝殻をそっと並べ、こちらを振り返った。小さく頭を下げる、あの仕草が、すべてを語っていた。 


 昼食を取りながら今月の貸出記録を見返す。風景画集の貸出がいつもより増えていた。


           ◇


 昼食のあと、中庭に出た。


 花壇の様子を見て回ると、隅の縁石が一つだけわずかにずれている。


 縁石の下の土が僅かに乱れている。掘ったのではない。何かを元に戻した痕だ。何かを取り出して、また埋め直した。あるいは、何かを加えたのか。成長祈願日のあの頃、子供たちが中庭で騒いでいたのは覚えている。


 縁石の下に何があるのかは、私の知るところではない。ずれた縁石を元の位置に直し、土を軽く均した。今はそれだけでいい。


           ◇


 午後。


 一階に戻り、作業台を拭く。布で拭くと、かすかに膠の匂いが立った。骨ベラの跡が台の表面に薄い線を残している。


 火曜日の修復屋は、来週もきっと来る。この台は、来週もここにある。ふと、冒険者だった頃が頭をよぎった。あの頃、同じ場所に戻れる保証はなかった。……それだけのことだ。


           ◇


 夕方近く。


 返却棚に詩集が一冊戻されていた。開くと、あるページに折り目がついている。


 折られたページを読む。言葉が少なく、短い詩だった。


 けれど、行と行のあいだに余白がある。余白とは、まだ書かれていない言葉のことだろうか。それとも、書かなくても伝わるものの居場所だろうか。


 詩集を棚に戻す。折り目は、そのままにした。次の読者が、同じページで立ち止まるかもしれない。


           ◇


 閉館。


 最後の利用者を見送り、窓を閉める。鍛冶工房の槌音はいつの間にか止んでいる。代わりに鳥の声が聞こえてきた。


 朝の栞を引き出しから取り出す。薄い革。真鍮の留め具に指が触れた。朝は冷たかったそれが、引き出しの中でほんのりと温もっていた。


 引き出しに戻す。明日、持ち主が来るだろうか。来ないだろうか。


 いや、どちらでも構わない。栞というのは、続きがあるという印なのだから。

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