5月18日『遠雷』
嵐の月曜日。
窓が鳴っている。雨が横から叩きつけ、遠くで雷が光る。今日は工房街の槌音が聞こえない。嵐がすべてを覆い隠している。
来客はない。
返却本の整理を終え、書架の点検を始めた手が止まった。窓際の棚に、昨日の貝殻が二つ並んでいる。青い渦巻きの巻貝と、白い二枚貝。貝殻さんたちの贈り物。どちらにも小さな花が描いてあった。歪んだ線に、はみ出した色。
巻貝を手に取り、その螺旋を指でなぞる。
雷が鳴った。近い。窓の外が白く染まる。指先に残る螺旋の感触が、別の記憶と重なった。
◇
あれは何年前だったか。
山間部の遺跡を探索した帰路で、嵐に遭った。視界を奪うほどの豪雨の中、斜面の下から晶獣の群れが這い上がってきた。
仲間の一人が足を滑らせた。岩に脚をぶつけ、崩れるように倒れた。
私はその腕を肩に回し、引きずるように走った。山腹に洞窟の口が見えた。
「先に行け!」
ザラの声だった。振り返ると、彼女ともう一人が斜面の途中で足を止めていた。
ザラの周囲の空気が膨れ上がった。虹色の毛並みが逆立ち、その体に稲妻が走る。嵐の日の彼女は、晴れた日とは別の獣だ。大気の電荷が、そのまま力に変わる。
雷の能力が放たれた。
稲妻が斜面を薙いだ。三体の晶獣が弾け飛んだ。もう一人の仲間が、ザラの死角から迫った一体を長柄で叩き落とす。だが、倒しても次の影が湧いた。雨の幕の向こうから、群れが地を這って迫ってくる。
「きりがない! 中に入れ!」
私はけが人を抱えたまま、洞窟に飛び込んだ。背後で銃声が二度。長柄が風を切る音。それから足音が二つ駆け込んできて――入口の向こうで、獣たちの気配が止まった。
中までは来なかった。暗闇を嫌ったのか、嵐の中で待つ方を選んだのか。
だが入口には、いくつもの影が蹲ったままだった。
◇
ザラがランプに火を入れた。狭い岩壁が浮かび上がる。
五人。泥と雨にまみれた全員の顔を確認した。ザラの顔には返り血が走り、残りの一人は肩で息をしていたが、傷はない。
ザラがけが人の脚を見る。
「折れちゃいない。打撲だ。でも走れないな、これじゃあ……」
「外は」
「待ち構えてやがる。嵐が連中を興奮させてるんだろう。当分は退かないだろうね」
大柄な仲間が入口の方を見やった。
「あれだけ吹き飛ばしても湧いて来る。……一体何匹いるんだ」
「数えてる暇があったら手を動かしな」
ザラは洞窟の奥を見渡した。天井が低く、壁も近い。
「……ここじゃ能力は使えない。壁に跳ね返って全員感電しちまう」
ザラがため息をつくと、一人の剣士が毒づいた。
「あんたの雷で死ぬのと晶獣に喰われるのと、どっちがマシだろうな」
「どっちも願い下げだよ」
笑いが起きた。小さく、短く。だが五人とも笑っていた。
沈黙が戻った。ランプの炎が揺れている。
「……別の出口を探しましょう」
私が言った。一斉にこちらを見る。
「根拠は?」
「まだありません。ですが――」
壁に手を当てた。
◇
冷たい岩壁。湿っている。
指先に、小さな凹凸が引っかかった。壁面には無数の皿状の窪みが走り、浅い方と深い方が規則的に並んでいる。もう少し先。硬い突起に触れた。渦を巻いた小さな螺旋――これは化石だ。貝の。
「……この洞窟は、かつて海の底だったようです」
「海だって? こんな山の中がか?」
「地殻が隆起したのです。壁面には水流の浸食痕があり、貝の化石が含まれています」
「それで、出口は?」
「海底洞窟には、水の入口と出口があります。ここが海の底だった頃、水はどこかへ抜けていたはずです。つまり――」
「入口と別の出口がある、と?」
「ええ」
「『はず』、ねえ……」
ザラが腕を組んだ。
「何万年も前の話だろう? 塞がってたらどうする」
「その時は。……ザラが壁を撃ち抜いてください」
「……あんたさ、たまにとんでもないこと言うよね」
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
ザラが鼻で笑って立ち上がり、けが人に肩を貸す。別の一人がランプを掲げて先頭に立つ。
「方向はわかるのかい?」
「壁の窪みに方向性があります。水が流れていた向きを辿れば、おそらく――」
私は壁に手を当てたまま歩いた。窪みの浅い側から深い側へ。水が流れていた方向を、指先で確かめながら。
だんだんと、化石の数が減り始めた。水流が強く、堆積物が洗い流されていた場所だ。
正しい方向に進んでいる。
◇
指先から化石が消えた。壁面の質感が変わっている。
柔らかい。堆積層が、後から通路を塞いだ壁だ。拳で叩くと、鈍い音が返った。少しずれた場所をもう一度――音が抜けた。向こう側に空間がある。
「ここです」
「確かか?」
「堆積物で塞がっているだけです。この先が、かつて水の抜けていた出口です」
ザラは傷ついた一人を残りに預けて前に出た。ホルスターから拳銃を抜く。
「本当に撃つことになるとはね……」
「で? どこを撃てばいい?」
「中央のやや上。一番音が薄かった場所を」
「全員伏せな」
轟音。銃弾が脆い層をえぐり、亀裂が走る。二発目を受けた壁が崩れ始めた。
ザラが拳銃を降ろし、右手を壁に向けた。
「よし。ちょっとだけだ。目を閉じな」
絞り込んだ一閃。稲妻が崩れた隙間を貫き、その先をこじ開けた。
風を感じた。冷たく、湿っている――だが洞窟の空気とは違う。
外だ。
◇
洞窟を抜けると、嵐は去りかけていた。空の半分はまだ暗い雲に覆われ、もう半分に朝の光が差し始めている。
目の前に、山の斜面が広がっていた。野の花が一面に咲いている。嵐に打たれて倒れているものもあった。泥に汚れたものもあった。でもほとんどは、まだ立っていた。
誰も何も言わなかった。
ザラが座り込んで、泥と返り血にまみれたまま、花畑を見渡した。
「……きれいだね」
それだけ言って、目を瞑った。
あの声を、今でも覚えている。洞窟の中であれほど鋭かった声が、花畑の前では、ひどく静かだった。
◇
遠雷。
指先が、かすかに痺れた気がした。
手の中の貝殻を、棚に戻す。窓の外で、雲が切れ始めている。




