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5月17日『花柄』

挿絵(By みてみん)

 雨の日曜日。


 屋根を叩く雨音が、遠い工房街の方から聞こえてくる。図書館は静かだ。雨の日は特に。その中に、別の音が混じってきた。かちゃり、かちゃりと、金属の足音が近づいてくる。


 水の中に住む人たちが、雨の中を歩いてきたらしい。彼らにとって雨は関係ないらしい。


           ◇


 扉が開いた。


 潜水服のような装備に身を包んだ、小柄な影。丸窓のついたヘルメットの中で、水がゆらゆらと揺れている。貝殻さんだ。毎週金曜日に風景画集を借りていく常連さん。


 しかし、今日は金曜日ではない。そして、一人でもなかった。


 隣にもう一人。同じ潜水服、同じ丸窓。丸窓の奥に、緑がかった滑らかな肌と、大きく横に広がった口元が見える。貝殻さんと同じ種族。


 ただし、その装備には花が咲いていた。水彩のような淡い色の花々が、脇腹から肩にかけて描かれている。金属の手袋で描いたのだろう。線はぎこちなく、花びらの形も少し歪んでいる。


 これは、貝殻さんが描いたのだ、と直感した。


 花柄の友人が、くるりと回った。


 もう一回、くるり。


 ヘルメットの奥で、瞼のない大きな目が弧を描いている。嬉しくてたまらない、とでも言いたげな回り方。貝殻さんが友人の肩を押さえて止めた。こっちは、もういいから、と言いたげだ。


 友人のヘルメットの中で、泡が少ししょんぼりと小さくなった。


           ◇


 カウンターで、友人が懐から筆と小瓶が入った包みを取り出した。どうやら油彩絵具らしい。


 友人が順に指差していく。貝殻さん、次に自分、それから画集の棚。一緒に描きたい、ということらしい。


 貝殻さんが両手を振った。上手くないよ、とでも言いたげに。それを見た友人が首を横に振った。自分の装備の花柄を撫でて、何度も頷いている。


 貝殻さんがまた両手を振り、友人がまた頷く。


 この繰り返しだ。……埒が明かない。私は画集と画用紙を取って、二階へと案内した。


           ◇


 二階の閲覧室。


 窓際の席に二人が並んで座った。卓上ランプの鈍い光に照らされている。友人が画用紙を広げ、貝殻さんが画集を開く。草原と山並みの風景画だ。


 友人が、真剣な面持ちで筆を構えた。


 ――ぽたり。


 手袋の隙間から、水滴が落ちた。紙が、じわりとふやけていく。二人が顔を見合わせた。友人が慌てて紙を持ち上げるが、染みが輪になって広がっていた。


 二人の背中が、同時にしょんぼりと丸くなる。


 私は三階の技術書区画へ上がり、防水紙を持って戻った。


「これなら大丈夫ですよ」


 友人が紙に触れた。手袋から水滴が落ちる。紙は水を弾いて無事だ。


 二人のヘルメットが同時にこちらを向いた。そして、二人同時に頭を下げ始めた。深々と。何度も。装備がぶつかり合って、からんからんと鳴り続ける。


「もう大丈夫ですから」


 止まらない。


 私は諦めて、書架の整理を始めた。


           ◇


 しばらくして振り返ると、二人が並んで描き始めていた。防水紙を一枚ずつ手元に置いて、画集を真ん中に開いて。


 貝殻さんが筆を取る。画集を見ながら、山を描こうとしているようだ。手袋がぎこちなく動き、線がぶれた。山のはずが、でこぼこの塊になっていた。


 それを友人が覗き込み、ヘルメットを傾けた。


 友人も筆を取る。山を描くが、線が同じようにぶれた。


 でこぼこの塊が、もう一つ。


 二人の絵を並べる。どちらも山にはとても見えない。


 二人は向き合うと、ヘルメットの中で泡が勢いよく立ち昇った。笑っているらしい。


           ◇


 笑いが収まった後、友人はもう一度筆を取った。今度こそ、という姿勢で画集をじっと見つめ、慎重に動かす。


 ……またでこぼこ。


 友人が両手を広げた。なんで、と困ったような仕草だ。


 貝殻さんが筆を受け取り、同じように慎重に線を重ねる。


 ……またでこぼこの塊になった。


 貝殻さんも両手を広げる。二人で自分の手袋を同時に見やる。同じ手袋、同じ太い指。二人は肩をすくめた。諦めの泡が、ぽこぽこと昇っていった。


           ◇


 友人が、ふと何かを思いついたらしい。


 筆を取って描き足す。でこぼこの下に、色とりどりの丸い形。茎のようなもの。花だ。でこぼこの花が、山脈の麓に咲いていく。


 貝殻さんが手袋を打ち合わせた。かちん、と小さく鳴る。


 隣に別の花を描く。同じようにでこぼこの花。二人の筆が交互に動き、どちらがどの花を描いたか、だんだんわからなくなった。


           ◇


 窓の外で、雨音が止んでいた。雲の切れ間から、夕方の光が差し込んでいる。


 二人がカウンターに一枚の絵を差し出した。でこぼこの山脈と、でこぼこの花畑。どこからが貝殻さんの線で、どこからが友人の線か、もうわからない。


「素敵ですね」


 二人のヘルメットから、静かに泡が昇った。


           ◇


 帰り支度を終えて、二人が扉に向かって歩き出す。


 すると、友人が立ち止まり、振り返った。首を振って、また歩き出す。と、また立ち止まり、また振り返った。ヘルメットの中で口を開きかけて、閉じるのが見えた。


 貝殻さんが振り返る。両手を腰に当てている。


 友人が一歩下がり、貝殻さんが一歩近づいた。友人がまた下がり、貝殻さんがまた近づいた。


 友人が観念したように肩を落とし、懐から筆を取り出した。


 貝殻さんのヘルメットが傾きかけ、それから大きく頷いた。最初から言えばいいのに、という頷き方。


 貝殻さんは体を斜めに向けて、自分の装備の無地の部分を指差した。


           ◇


 友人の手袋が、小さく震える。


 筆が、貝殻さんの装備に触れ、ぎこちない線が走る。ぶれている。でこぼこになる。でも、確かに花の形だった。


 貝殻さんが自分の装備を見下ろす。小さな花が一つ。さっきの絵と同じ、でこぼこの花。


 ヘルメットの奥。水の中の瞼のない目が、潤んでいるように見えた。


 二人が向き合った。同時に、深く頭を下げ合った。装備がぶつかり合い、がちゃがちゃとお辞儀が止まらない。


 私は見て見ぬふりをして貸出記録を整理した。


           ◇


 二人の背中を見送る。 


 友人が完成した絵を高く掲げ、貝殻さんは装備の脇腹を指差している。


 鋼鉄製の花柄が二つ並んでいた。同じようにぎこちない、同じ手袋で描いた花。

【サピル族】

挿絵(By みてみん)

 陸上では潜水服を必要とし、言葉をほとんど発さない小柄な種族。夜間に精神が繋がる集合意識「スフィア」を共有し、個と群れの境界が曖昧なまま生きている。沈黙の奥に広がる深い共感と、個を持てぬ息苦しさが同居する種族である。

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