5月15日『言葉を探しに』
わたしは図書館の扉を押した。五月の風がすこしだけ中に入ってきて、すぐに閉まる。
遠くで鍛冶工房の槌音がしていたけど、扉一枚で、もうほとんど聞こえない。
伝えたいことが、ある。——たぶん。何をって聞かれると困る。自分でもうまく言えない。
ただ、ちゃんと言葉にしなきゃいけないものが胸の奥にある気がして。
ここで、ある人の話を聞いた。届けたかったのに、届けられなかった言葉の話。何十年もそのままだった言葉の話。あれからずっと引っかかっていた。
わたしにも、伝えそびれていることがあるんじゃないかって。
だから今日は、言葉を探しに来たんだ。
◇
「あの、言葉の綺麗な本を探してるんですけど」
「どのような言葉でしょう」
「……ちゃんと届く言葉、です」
自分で言って、ちょっと首を傾げた。ちゃんと届くって、なんだろう。わたしが探してるのは、本当にそういうものなのかな。
一階に寄り道。絵本の棚。
子どもの頃に読んだ本たちが並んでいる。ふと手に取った一冊。動物たちが贈り物を渡し合う話。「はい、どうぞ」「ありがとう」。それだけで、みんな笑ってる。……昔はこれでよかった。言葉は少なくて、まっすぐで、迷う余地なんてなかった。
「いつから難しくなったんだろ……」
あ、声に出てた。周りを見る。——大丈夫、誰もいない。
絵本を棚に戻して、二階へ上がった。
◇
文芸区画。
背表紙を順に見ていく。物語、詩集、書簡集。とりあえず、目についたものから手に取ってみる。
最初の一冊は、二人の冒険者の物語だった。旅の途中で片方が怪我をして動けなくなる。もう片方が黙って背負って、歩き出す。
「重くないのか」
「別に」
——たった二語。飾ってないのに、ちゃんと伝わっている。
空想がちょっと動いた。わたしが誰かを背負って、山道を歩いている。「重くないのか」って聞かれて、「別に」って言いたい。言ってみたい。——でも絶対、途中でつまずくな。体力ないし。
「……だめだ」
棚の向こうで、誰かが小さく笑った気がした。しまった、また声に出てた。
うん。でも、短い言葉でいいってことはわかった。参考になった。次だ。
書簡集を開く。遠い場所にいる相手に、毎日のことを書き送る手紙。
「あなたはいつも、パンの耳から食べますね」
「あなたの椅子が軋む音で、朝が来たとわかります」
……相手の癖を、こんなに細かく覚えてる。誰かの些細な癖。それなら——わたしにもある。
この図書館で、本の読み方がすこし不思議な人を見かける。ページをめくる音がほとんどしない。指の動きだけで、紙がすっとめくれていくんだ。どうやってるんだろう。
本を閉じて、もう一冊。棚の端にあった薄い本。
灯台守の話だ。毎晩同じ時間に灯りをともす。嵐の夜も、凪の夜も、船が来ない日も。ひとりの人間が、同じ場所で同じことを続ける。ただそれだけの話。
でも一箇所、手が止まった。
「――もし今夜、一隻の船が来たとき、この灯りがなかったなら。そう思うと消すことが出来ない」
◇
少し、気分を変えたくなった。
三階に上がる。カウンターで学生証を見せて、技術書の区画に入った。ここに「言葉の綺麗な本」はない。設計図。仕様書。工房で見慣れた道具の図解。
歩いていたら、一冊がわずかに棚からずれているのが目に入った。最近、誰かが読んで戻したばかり。
『時計技術の精髄』。
なんとなく手に取った。歯車の断面図。精密で、静かで、余計なものがない。
ページをめくっていたら、余白に古い書き込みを見つけた。
『この一つが全体を動かす。小さいが、なければ止まる』。
——ふと、記憶が浮かんだ。
先月、ここで本を探していた時だった。棚の向こう側に座ってる、あの人と出会った。
こちらには気づいていない。本に向かっている横顔。周りの空気がすこしだけ重い気がした。あの人がいる場所だけ、密度が違った。
本を閉じた。窓から差す夕陽が、ページの端を金色に染めていた。
答えは出なかった。まあいいか。
◇
席に座った。便箋を一枚だけ出す。
もう本は開かない。短くていい。一つだけの、真実の言葉。たった一行でいいんだ。今日一日かけて探した、ちゃんと届く言葉を。
読み返さなかった。読み返したら、たぶん書き直してしまうから。
——来月も、来るかな。あの人。
封をした。
◇
出口に向かう。カウンターの横を通りすぎた時、三階への階段が視界の端に見えた。
……。
耳が、熱い。
来た時の倍の速さで石畳を歩いた。鍛冶工房の終業の鐘が、背中で鳴っていた。
鞄を抱えた。
その口から、金色の糸が一本、風にそよいでいた。




