5月13日『朝が来る』
閲覧席の端で、長い耳がまっすぐ天井を向いていた。
青年が一人、討伐報告書に赤い瞳を近づけている。紙面と瞳のあいだが指二本分もない。インクで汚れた細い指が、何かを一心に書き写していた。朝から閲覧許可を出した相手で、冒険譚を書くために遠方から来た作家だという。
午後になって、別の来客があった。
「よう。頼んでた地図、あるかい」
振り向かなくてもわかる。虹色に染めた短い毛並みが午後の光に眩しい。すらりとした長身。腰のホルスターが革鎧にかちりと当たった。
「書庫から出しますので、少々お待ちを」
「あいよ」
ザラは空いた閲覧席に、遠慮というものを一切省いて座った。私は、先日頼まれていた地勢図を取りに、書庫へと向かう。
振り返ると、青年の長い耳がぴくりと動いていた。ホルスターを見つめる赤い瞳が、光っている。
あの目は、取材対象を見つけた目だ。
案の定、書庫の扉を閉める前に、椅子がガタンと鳴るのが聞こえた。
◇
地勢図を抱えて戻ると、閲覧席が騒がしかった。……騒がしいのは一人だけだが。
「僕、作家をしているんです。今まさに冒険譚を書いていまして――現役冒険者の、お話を聞かせていただけませんか」
ザラがこちらを見た。何とかしてくれ、という顔。私は地勢図を渡した。……何もしない。
ザラは頼まれると断れない人なのだ。舌打ちひとつ。
「……座りな」
三人が地勢図を囲む形になった。
青年は鞄から原稿の束を引っ張り出し、勢いで筆記具が転がり落ちた。拾いながら、耳の付け根まで赤い。
「えーあの、冒頭だけもうできてまして。確認していただければと――」
返事を待たず、口上が始まった。
「――暁の雷光が闇を切り裂き、バーレトの戦士は天を仰いだ。響き渡る咆哮。その足が大地を踏み鳴らし、恐れおののいた魔物共が次々と――」
インクに汚れた指が、地勢図の等高線をなぞっている。壮大な情景を、実務用の地図の上で語っていた。
「ちょっと待ちな」
長い耳がびくりと止まった。
「あたし、咆哮なんかしないよ」
「え」
「天を仰ぐのなんかもしないよ。っていうか、戦いの最中に上なんか向いてたら死ぬだろ」
「は、はあ……」
「あとさ、ここ」
地勢図の一点を指で叩いた。
「深い沼地だよ。踏み鳴らしたらひざまで沈む」
長い耳が、へにゃりと折れた。
向かいの席の利用者が、ちらりとこちらを見た。
青年はめげなかった。原稿を閉じ、質問に切り替える。
「……えー。では、初めて怪物と戦った時、何を感じたか。覚えてらっしゃいますか?」
「腹減ってたな」
耳が垂れた。
「能力を解き放つ瞬間は」
「また服が焦げちまうなって」
耳が垂れた。
「で、では、仲間との絆を感じた場面は――」
「飯だな。炊事担当がひどくて、そりゃもうマズくってさ。はは。あれには、みんな呆れてたな」
鋭い目がこちらに流れた。にやりと笑う。
私は書架の整理を始めた。……目を合わせない。
「ではっ、命の危機を乗り越えた後の――」
遮られた。
「風呂入りたいなって。三日ぶりだったからさぁ。あとは飯で――」
「また飯の話ですか!」
立ち上がった拍子に、椅子が倒れた。向かいの利用者が本で顔を隠している。肩が震えていた。
私は人差し指を唇に当てた。長い耳が、申し訳なさそうにぺたんと伏せる。
「冒険の半分は飯と風呂だよ、坊や」
鼻で笑った。――もっとも、大物を仕留めた夜は別だ。本人は覚えていないだろうが。
◇
「地図を確認するから」
ザラが奥の机に移った。席を外したのか、本当に確認するのか。たぶんその両方だろう。
「追加の資料が必要でしたら、お出ししますが」
青年が顔を上げた。
「……司書さん」
「はい」
「事実を書いたら読み物にならないんです。けど、話を盛ったら嘘になる。物語って――何を書けばいいんでしょうね」
赤い瞳が手元の原稿に落ちた。三色のインクの書き込みが、幾重にも重なっている。
「――書いても書いても、本物に近づけない気がします」
「……退屈な事実も、華やかな嘘も、書いた方が見た景色であることに変わりはないと思います。けれど、どちらが本物かは――読んだ方が決めることなのかもしれませんね」
司書の領分を越えた物言いだっただろうか。青年はしばらく黙り、それから不思議そうに笑った。耳が少しだけ立ち直った。
「……もう一回、聞いてきます」
椅子は、倒れなかった。
◇
奥の閲覧机で、ザラが地勢図に印をつけていた。明日以降の巡回路だろう。地味で正確な、いつもの仕事だった。
青年が向かいに座った。原稿もペンも持っていない。
「一つだけ伺わせてください。一番――怖かったことは何ですか?」
地勢図を畳みかけた手が、止まった。
長い沈黙のあいだ、青年の耳はまっすぐ立っていた。今度は興奮ではない。
「怖い、ねえ」
指先で地勢図の端を弄びながら続ける。
「……化け物は、まあ怖くないんだよ。目の前にいるからさ。恐れたって仕方ないし、見えるものは怖くなんかない」
間があった。
「――本当に怖いと思うのは。……朝起きてさ。……気が付いたら、隣にいたやつがいなくなってる事だよ」
静かな声だった。いつもの啖呵ではなく、ただ、そういうものだと言うように。
青年の右手が動きかけた。――ペンは、ここにはない。手が静かに膝に戻った。
長い耳が微動だにしない。赤い瞳がただ、ザラの顔を見ていた。
◇
青年が閲覧許可証を返しに来た。原稿を丁寧に鞄に詰めている。
「今日はありがとうございました」
それだけだった。長い耳が、穏やかな角度で揺れていた。
ザラが地勢図を丸めてカウンターに来た。
「変なやつだったな」
「そうでしょうか」
「……耳のリアクションがうるさい」
「……否定はしません」
鼻で笑って、片手を上げて出ていった。革鎧の擦れる音。少しだけ、静かな足音。
◇
私は閲覧席を片づけた。
残された書き写しの用紙を重ねていくと、一枚だけ、どの報告書の写しでもない紙が混ざっていた。裏紙に、短い単語の羅列。書き直しの跡がない、荒い走り書き。
『泥の道、冷めた飯、眠る――』。
最後の一行だけ、少し筆圧が強かった。
『――それでも朝が来る』。




