5月12日『繋ぐ人』
火曜日の修復屋は、いつもの二人連れだった。
カウンターに現れたのは、まずザルツさん。その後ろに小柄な老女が続く。白髪交じりの頭から突き出た大きな耳が、入るなり書架へ向いた。
「棚変えたね? 右から四番と五番」
先週、少しだけ配置を調整した。貼り紙も出していない。目だけで見抜く人がいる。
この方がザルツさんの師匠だ。当のザルツさんは、先日一人で来たときの芯のある受け答えが嘘のように、小さな師匠の後ろで影みたいに黙っている。
今日の依頼は背表紙の剥がれ一冊。ザルツさんが手早く終わらせるのを、師匠は見もしなかった。
「お二人でいらしたので、少し見ていただきたいものがあるのですが」
「なになに?」
先日の保管庫整理で、寄贈品の箱の底から出てきた革表紙の古い帳面がある。ページ同士が固着して開けない。
「行く行く。ザルツ。ほら、道具」
差し出された道具袋をひったくって、もう歩き出している。
◇
別棟書庫。師匠が帳面を手に取った。干からびた革。油染み。署名もない。
触れた瞬間、表情が変わった。
「まだ生きてるよ、この革」
指先が表面を滑る。触れるだけで繊維の構造を読んでいる。大きな耳がぴくりと動く。
「虫はいない。油と……香辛料の粉? ふむ。面白いね」
固着したページに指を当てると、紙と紙のあいだがするりと離れた。走り書きの文字。余白にメモ。
「左利きだね。……油の染み方が面白い。火のそばで書いたページと冷えた場所のページがある。台所と帳場を行ったり来たりしてた人だね」
三百年前の紙の記憶を、指先で読んでいる。中身はどうやら厨房の日誌らしい。
師匠が声を上げた。
「書き出し、見てみな。――『眠い。なぜ鍛冶屋は夜明け前に腹が減るんだ』。次の日、『今日は眠くない。が、弟子が寝坊した。意味なし』――あはは、なかなか面白い人じゃないか」
弟子の記述が続く。
「――『焦がした。二枚目も。三枚目は生焼け。どうすればうまく行くのか』」
師匠がザルツさんを見上げた。
「あんたも覚えあるでしょ」
「……四回です。やり直しの回数」
「そんなもんだった?」
「覚えていないんですか」
「いちいち覚えないわよ」
ザルツさんがこちらをちらりと見た。先日「師匠は自分の言葉を覚えていない」と語っていた、あの目だ。
さらに読み進める。
「『鼻が利かない時は、焼き色で判断できる。目と舌があれば鼻はいらない、と自分に言い聞かせている』――二回言ってる。全然、納得してないのね」
「……師匠と似ていますね」
「どこが」
「自分の言ったことを覚えていないところ」
「失礼ね」
師匠はまったく気にせずページをめくっていたが、ふと手が止まった。穀物生地の焼き順。配合の図面。
「……ねえ、これ――パッロじゃない?」
それが料理の名前なのか人の名前なのか、一瞬わからなかった。帳面を裏返す。擦り切れた署名と年号。時代は三百年前。
「パッロの厨房日誌だわ、これ」
十二都市の誰もが名を知っていて、それが人名だったことはほとんど誰も知らない、あの朝食。薄焼きの生地で卵焼きをくるんだ料理の名前だ。
ザルツさんが初めて身を乗り出した。
◇
日記の後半。弟子への愚痴が減り、文字が落ち着いてくる。
「――『弟子が温度を間違えた。怒鳴ろうとしたが、やめた。黙って横で同じものを焼いた。明日同じ間違いをしなければ、それでいい』」
師匠が顔を上げた。
「言葉じゃなくて手で教える人だね。修復と似てるわね」
ザルツさんが微かに目を伏せた。師匠はまた、同じことを初めて言うように言った。
さらに後のほう。
「――『火が言うことを聞かない日もある。聞かない火には、それに合わせた焼き方を』」
終盤に一枚、端から崩れかけているページがあった。師匠が掌を当てて目を閉じた。
「この紙、まだ覚えてるね。どうやって『繋がってた』のか」
目を開ける。
「ほら。やってごらん」
ザルツさんが指を置いた。
「……繊維が、ばらばらです」
「そうだね。でもね、一本ずつは切れてない。繋がりが解けて、外れてるだけだ」
師匠がその指の上に手を重ねた。
「ここと、ここ。元は繋がってる。わかる?」
指がかすかに動く。繊維が静かに結び直されていく。
「……わかります」
「なかなか上手いじゃない」
最後のページを開いた。師匠が声に出さずに読んでいる。この人が黙ったのを、今日初めて見た。
しばらくして、帳面をこちらに向けた。
『朝、いつもより早く店に来たら、弟子が先に火を入れていた。
恐る恐る鉄板の温度を確かめてみたら、私と同じだ。教えた覚えはない。見ていたのだろう。
焼き上がりを一つ食べた。旨かった。悔しいとは思わなかった。不思議なものだ。
明日から鉄板の前に立つのは、もう一人でいい』
日記はそこで終わっていた。
「いい仕事帳だ」
声は明るかった。けれどその前の沈黙を、私はたぶん忘れない。
◇
修復が終わった。
「どの棚に入れましょうか」
師匠が窓際を指さした。
「あそこ。厨房の帳面なら、明るいところがいいわよ」
本棟への廊下で、師匠が書架の背表紙にぽん、ぽんと指を当てていく。触れたところだけ、革の色艶がかすかに変わった。四十年分の、名前のない仕事。
カウンターの前で足を止めた。
「ねえ、ここの書庫、いい匂いするね」
「……はい。私も好きです」
「そう。よかった」
ザルツさんが続く。廊下の途中で一瞬足が遅れ、背表紙に指を伸ばしかけて――やめた。
「じゃあね、またね」
大きな耳が、出口の光の中で揺れていた。
◇
二人が去ったあと、カウンターの脇に気がついた。道具袋だ。四十年の手脂で、持ち手だけ色が変わっていた。
袋の口に紙片が一枚。
『あの子によろしくね』
火曜日の修復屋は、来週からは一人になる。




