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或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
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5月11日『届いた手紙』

挿絵(By みてみん)

 月曜日。窓の外で、鉄を打つ音が始まった。


 朝日がカウンターの石を白く照らしている。一人の女性が入ってきた。がっしりとした体格に、広い肩幅。作業着の袖口に、研磨粉を払った跡がある。


「砥石が割れまして。交換の間、少し」


 彼女は入口近くの書架を眺めながら歩いていた。何かを探しているのではない。指先で棚板の縁に触れながら、ここにいていい理由を確かめているように見えた。


「……配置、少し変わりましたね」


「いつ頃にいらしたことがありますか」


「……ずいぶん前です」


 書架の端まで歩いてから、ゆっくりとカウンターへ戻ってきた。


「少し、聞いてもらえますか」


            ◇


「灯火の日に、息子が手紙をくれたのです」


「手紙、ですか」


「ええ。……あの子は字を書けなかったのです。ずっと。……小さい頃に教えようとしたのですが、覚えられなくて。いえ――」


 彼女は懐から一枚の紙を取り出した。丁寧に広げる。片面に、不揃いな文字。もう片面に──赤と橙の、炎の絵。見覚えのある紙だった。


 彼女は手紙の一箇所を指した。


 ──小さいころ おしえてくれようとしたのに ごめんなさい。


「朝は研磨台に立ち、昼は下請け、夜は家の仕事。指が動かなくなる頃にはもう暗くて。教える時間を、作る事が出来なかった」


「あの子は、自分が覚えなかったことを謝っています。けど──諦めたのは、私の方なんです」


            ◇


「実は昨日の夜から気になっているのは、この絵の方なのです」


 彼女は紙を裏返した。赤と橙の炎が、朝の陽を受けている。


「気になって、昨夜ずっと見ていました」


「この色を……どこかで見た。知っている、と思ったのです。夜遅くまで裁縫台に向かっている時、暖炉の残り火だけが灯っている。あの時の色です」


 彼女が絵をなぞる手を止めた。もう一度、炎の絵をじっと見ている。


「……おかしなことを思い出しました」


「あの子は、絵ばかり見ていました。特に好きだったのが鍛冶師の場面で、炉に火を入れるページだけ何度も開かせるのです」


 彼女の声が少し柔らかくなった。


「あのページの炎が──この絵に、似ている気がして。……不思議ですね」


 彼女はそう言って、小さく笑った。答えを求めている笑い方ではなかった。


「……あの本。もう一度見ることはできないでしょうか」


            ◇


 彼女は立ち上がった。私が先に立ち、二階へと案内する。児童向けの書架の前で、彼女は足を止めた。


「あの子が小さい頃は、ここで本を選んでいました。何冊か抜いて並べると、自分で一冊を指差して――」


 彼女は背表紙を目で追い始めた。児童向けの書架から、隣の職人関連の書架へ。その境目あたりで、指先が止まった。


 表紙が日に焼けて色の褪せた一冊を、引き抜いた。ページをめくる。手が止まった。


 鍛冶師の見開き。炉に火が入っている。赤と橙。ページいっぱいの炎。


「……これです」


 しばらくそのページを見つめてから、静かに本を閉じた。


「――わたしが、先に辞めました」


「でもあの子は、私の知らないところで、知らない人たちに助けられて。そして、ちゃんと――」


 私は間を置いてから言った。


「手紙、届いたのですね」


            ◇


 貸出の手続きをしながら、彼女の手が目に入った。爪は短く削られ、金属粉の染みが指紋の筋に沿って残っている。その手が、古い本を受け取った。


「返しに来ます」


「いつでも」


 彼女は小さく頷いて、出ていった。

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