5月10日『それぞれの香り』
午後の図書館は、いつもより賑やかだった。
花束を抱えた男性が閲覧台で手紙を書いている。書架の向こうでは、包み紙の色で悩む子供たちの声が聞こえる。
◇
昼過ぎ、見覚えのある女性が入ってきた。――リンデさん。窓辺の植木鉢へまっすぐに向かい、覗き込んだ。
「大きくなりましたね」
声の調子が以前とは違った。張りつめたものが溶けている。
「双葉、出たんですね。……元気に育って」
指先で葉に触れた。芽が微かに揺れた。応えるように。
振り返って、私に微笑んだ。その表情に硬さがなかった。まだ全部は本当じゃないのかもしれない。けれど――半分くらいは、本当になりかけている。
現代書区画を歩くうち、彼女の足が一瞬止まった。目を逸らすのではなく、その隣の棚へ手を伸ばした。そして、園芸の手引きを一冊選び取った。
「この芽、何の花が咲くんでしょうか」
植木鉢の双葉は、まだ土の香りしかしない。
「楽しみですね。一緒に調べましょう」
◇
午後の半ば、エルダが来た。手に古い帳面を携えている。
「香辛料の調合について書かれた本はありますか」
「料理用でしょうか」
「はい。配合を調べたくて」
今日の食卓に祖母の料理を作るのだという。二階の書架へ案内する。階段を上がりながら、帳面を開いて見せてくれた。ページの間から、かすかに古い香辛料の匂いが立った。
「ここに『適量』って書いてあるんですけど、適量って、どのくらいなんでしょう」
丁寧だが癖のある筆跡。分量の欄に「適量」とだけ記された行がいくつもある。
「……それは永遠の謎ですね」
二人で顔を見合わせた。
閲覧室で本を選ぶ。エルダの手が迷いなくページをめくっていく。
「母は甘い味が好きなんです。でも私は、香辛料を利かせたくて。……難しいんですよね」
「それがエルダさんの料理ですね」
迷いの消えた目をしていた。
「うん、そうですね。真似するんじゃなくて、私の味で作ろう。ふふ。……笑ってくれたら成功です」
◇
夕方近く、いつもの二人がやってきた。
ミーアが今日は車椅子を押している。マリアさんは白い髪を綺麗に整えて、穏やかな表情をしていた。
「今日はどの本を」
「いえ。今日は、詩集を持ってきたんです」
ミーアがポケットから薄い一冊を出した。
「おばあちゃんに読んであげたくって」
中庭へと案内した。噴水のそばのベンチ。建物の影が庭の半分を覆うけれど、ベンチのあたりにはまだ日が残っている。
朗読が始まる。春と、手のぬくもりについての詩。噴水の水音が、ミーアの声にそっと重なる。マリアさんは耳を傾けている。
「ああ、きれいね」
途中でマリアさんが顔を上げた。中庭の向こう、ケヤキの梢が風に揺れている。
微笑んでいた。その目は世界を初めて見るように澄んでいた。
「あなた、いい声ね」
ミーアが嬉しそうに頬を緩める。
「今日、何の日だったかしら。でも……これ、あなたに」
包み紙の中に、香草の砂糖菓子がひとつ。
ミーアの目が一瞬潤んだ。それから、明るい声で言った。
「ありがとう、おばあちゃん」
車椅子の音が遠ざかったあと、中庭のベンチに甘い草の香りが残っていた。
◇
夕方。
カウンターを片付けていると、自然と便箋に手が伸びた。
「――お元気ですか。こちらは新緑が美しい季節になりました」
窓辺の双葉が、茜の光を浴びている。




