5月9日『糸を辿って』
わたしが図書館の扉を開けると、夕方の光が高い窓から差し込んでいた。
本棚の間を歩く人影。ページをめくる音。日中の喧騒はもう静まりかけていた。
鞄の中には、一通の封筒。昨日借りた寓話集の間から出てきた。宛名も差出人もない、古い手紙。触れた瞬間、指先を金色の光が走った。
わたしには、物に残った想いが見えることがある。強い感情は、金色の糸みたいに目に映るのだ。この封筒からは――太くて、鮮やかな輝きが伸びていた。
切なくて、苦しくて、でも温かい。
これは絶対……恋文だ。
届けたいなんて、大それたことは思わない。ただ――知りたかった。どんな人が、どんな想いで、この手紙を書いたんだろう。
輝きは、館内の奥へ続いている。
追いかけずには、いられなかった。
◇
目を閉じて、光の痕跡を辿ってみる。二階の奥。学術文芸の棚のほう。
同じ輝きが、あちこちに絡みついているのが見える。古くて薄れかけているけど、確かに同じ人のもの。何度もここに通っていた証。
『月下の誓い』――騎士と姫の悲恋。
『遠い国の手紙』――離れた恋人への書簡集。
『約束の花』――戦場に咲く花の寓話。
わあ。全部、誰かを想い続ける物語ばかりだ。背表紙に触れると、切なさが指先にじんわり伝わってくる。
わたしの頭の中で、勝手に物語が動き出す。
――この人は、きっと叶わない恋をしていたんだ。届かない想いを抱えて、毎日ここに来て。物語の主人公に自分を重ねながら、涙を堪えていた――
「悲劇のヒロイン……」
あ。しまった、声に出てた。棚の向こうから誰かが覗いてる。
……でも、気になる。痕跡はまだまだ続いていた。
◇
同じ階の、別の部屋へ。
郷土資料室。古い記録や年鑑が並ぶ、少し埃っぽい部屋。あまり来たことがない場所だ。
棚の一角。背表紙に日付が入った古い冊子が並んでいる。五十年以上前の出征記録。
痕跡は、特定の年代に集中していた。何度も何度も、同じ冊子を開いた跡。
わたしの中の「悲劇のヒロイン」が、少し形を変える。――待っていたんだ。この人は。届かない手紙を抱えて、誰かが帰ってくるのを。ずっと。
胸の奥が、きゅっとなった。
◇
一階へ降りる。
入口近くの現代書の区画で、足が止まった。
あれ? 光の様子が変わった。古い輝きと、新しい輝きが――重なってる。
『おやすみなさいの絵本』
『森のともだち』
古い痕跡は、ずいぶん昔のものだ。何十年も前だと思う。子どもの手が届く高さの棚に、たくさん絡みついている。新しい痕跡は、つい最近。同じ棚に、同じように絡みつくように残っている。
……あ、そういう事か。
この人はきっと、子どもの頃からこの図書館に来ているんだ。大人になって、恋をして、悲しい本を読むようになって。そして、歳を取った今も、まだここに通っている。何十年も。
なんだか、胸がじんわりした。
光の筋は、窓の外へと伸びていた。中庭が見える。大きなケヤキ、その下にベンチ。小さな噴水が、夕陽を受けてきらきら光っている。
あそこだ。
◇
中庭に出た。ケヤキの葉が、さわさわ揺れている。
すべての輝きが、ここに集まって渦巻いていた。何十年分もの想いが絡まり合って、まぶしいほどに光っていた。
その中心にあるベンチには、老女と小さな男の子が座っていた。絵本を開いて、読み聞かせている。
わたしは、手に持っていた封筒を見つめた。同じ輝き。まさかこの人――。
「あら」
老女が、こちらを見ていた。わたしの手元を見て、目を丸くした。
「その手紙……!」
老女が立ち上がり、驚きと、懐かしさと、喜びが混ざったような顔をしてみせた。
「まあ……」
「あの。もしかして、これ……」
老女の目が、潤んでいた。
◇
「座って」
言われるまま、ベンチに腰を下ろす。わたしと男の子で、老女を挟む形になった。
「その手紙って……」
「おばあちゃん、それなあに?」
「お手紙よ。ずっと昔の」
老女が、ケヤキを見上げた。
「……届けたくて、届けられなかった手紙」
風が吹いた。葉擦れの音。噴水の水音。
「聞いてくれる? 長い話になるけれど」
「うん!」
「はい!」
男の子とわたしの声が重なった。老女が、ゆっくりと話し始めた。
「ここでね。お父さんを、待っていたの。毎日、毎日。ずうっとね。……それは、この木が、今より細くて、葉もずっと少なかった頃の話――」
夕陽が差し込んでいる。
ケヤキの葉が、金色に染まっていた。




