5月8日『はじめての手紙』
二階の閲覧室に、大柄な影が二つあった。
どちらも厚い手に、広い肩幅。片方は画帳を膝に載せ、もう片方は工芸書の棚の前で背表紙を睨んでいる。
「どれがいいんだ」
「……わかんない」
最近よく見かける組み合わせだ。画家志望のエミールと、その友達のベルト。
明後日は「灯火の日」。家の灯りを守る者に感謝を届ける日だ。この時期、贈り物の相談で来館する若者が増える。
窓際の席で細工用の図案集を開いていた小柄な女性が、顔を上げた。大きな耳が、ぴくりと動く。
◇
女性が席を立ち、二人のもとへ歩いていく。
「何、探してるの?」
「あ……セラさん」
エミールが小さく会釈した。
銀細工師の見習い、セラ。左腕に古い傷を持つ彼女も、この図書館の常連だ。
「そっちは……ベルト、だっけ」
「……はい」
ベルトは、自分より二回りは小柄なセラを見下ろしながら、少し身を縮めている。
セラはエミールを見た。エミールは黙って、ベルトを指す。
「何か作りたいって」
「何を?」
「……わからない」
ベルトは口ごもった。
「母ちゃんに、灯火の日の贈り物をしたくて。でも何を作ればいいのか」
「手先は器用?」
「……全然。力仕事は得意なんだけど」
ベルトは背表紙を睨んでいる。『精密細工の技法』『彫金入門』――どれも難しそうだ。
「母ちゃんは、俺が何を贈っても喜んでくれると思うんだけど。……でも今年は特別なのにしたくって」
声が小さくなる。
「その……字が、書けるようになったんだ」
セラの丸い目が、少し大きくなった。
「字を覚えたの?」
「最近、仲間と一緒に」
セラは少し考えてから、言った。
「だったら、手紙でいいんじゃないかな。字が書けるようになったこと自体が、一番の贈り物だと思う」
ベルトは俯いた。
「でも……下手なんだ。まだ震えるし」
セラは左腕の傷跡を見せた。
「私も銀細工で、最初はひどいものしか作れなかった」
「でも師匠に言われたの。『下手でも、心がこもっていれば作品だ』って」
◇
三人は閲覧席に移った。
「紙、ある?」
セラが聞く。ベルトは首を振った。
エミールが画帳を開いた。後ろの方に、白紙のページが何枚かある。
「これ、使って」
「いいのか」
「空白だし」
ベルトは鉛筆を借りて、書き始めた。セラが隣で手元を見ている。
「『あ』はこう、丸く。……そう、いいよ」
一枚、また一枚。不揃いな文字が並んでいく。書いては消し、また書く。
やがて、ベルトの手が止まった。
「……もう、白いところがない」
画帳の後ろ半分が、練習の跡で埋まってしまった。
「……やっぱり、俺には無理だ」
鉛筆を置いた。
「細工も駄目、字も下手。何もできない」
エミールが、ぼそりと言った。
「僕の最初の絵も、酷かったよ」
ベルトが顔を上げた。
「色も形もめちゃくちゃ。自分で見ても何描いたかわかんなかったんだ。でも母さん、額に入れて飾ってるよ。今でもね」
セラも頷いた。
「私も。最初に作った銀の指輪、歪んでて、人には見せられなかった。でも母に贈ったら、今でも持ってるって。『初めて作ったものだから』って」
沈黙が降りた。エミールが続けた。
「母さんってのは、そういうもんなんだと思う。上手いとか下手とか、関係ないんだ。『初めて』ってのが、大事なんだ」
◇
「でも――」
ベルトは画帳を見た。
「もう紙が」
エミールは黙って画帳を手に取り、前の方のページをめくる。風景画。工場の煙突。夕暮れの空。
一枚のページで、手が止まった。炎の絵だった。工場の炉から立ち上る、赤と橙の炎。エミールはそのページの裏を見せた。白紙だ。
「ここに書けばいいよ」
ベルトが目を見開いた。
「だってお前の絵の――」
「裏だから大丈夫だよ」
エミールは窓の方を向いたまま言った。
「表は僕の絵。裏は君の手紙。……二人分だ」
セラが微笑んだ。
「ふふ。いい贈り物になると思う」
ベルトは、しばらくその紙を見つめていた。それから、鉛筆を握り直した。
◇
『母さんへ。
字がかけるようになりました。
小さいころ おしえてくれようとしたのに ごめんなさい。
ありがとう。
――ベルト』
「……できた」
エミールが覗き込んだ。何も言わず、小さく頷く。
セラが言った。
「いい手紙」
ベルトの耳が赤くなった。
「……ありがとう。二人とも」
窓の外、夕暮れが近い。鉄を打つ音が、少しずつ遠のいていく。
◇
三人が帰った後、閲覧席に鉛筆の削りかすが残っていた。
「灯火の日」。届く手紙が、ひとつ増えた。




