5月7日『待ち合わせ』
昼を過ぎた頃、大柄な影が扉をくぐった。
五十代ほどの男性。立派な角を持ち、背筋の伸びた方。
クラウスさんだ。二階の窓際の席に座ったが、本も開かず、何度も懐中時計を見ては階段を振り返る。
「お待ち合わせですか」
「ああ。妻と――」
また懐中時計を見る。角が小さく揺れ始めた。
「失念していた」
「何をです」
「申し上げられない。すまないが、少し出る。妻が来たら『すぐ戻る』とだけ」
クラウスさんは階段を駆け下りていった。巨体とは思えない速さだった。
◇
少しして、大きな布包みを抱えた女性がやってきた。――クラウス夫人。
「主人は来ています?」
「先ほどまで。『すぐ戻る』と出ていかれましたが」
「どちらへ?」
「伺っておりません」
「そう。……何を企んでいるのかしらね」
窓際の席に座り、包みを椅子の下に隠した。窓の外を眺め、ふと呟いた。
「ふむ。これだけでは、少し寂しいかしら」
「どうかされましたか」
「……いえ、何でもありません」
口が滑った、という顔だった。
「少し出てまいります。主人が来たら『すぐ戻る』と」
「承知しました」
◇
夫人が出かけて間もなく、ご主人が戻ってきた。息を切らせ、大きな布包みを抱えている。
「妻は来たか」
「いらっしゃいましたが、『すぐ戻る』と――」
窓際の席に座り、包みを椅子の下に入れた。夫人の包みは反対側にある。同じ大きさだった。
ご主人は手持ち無沙汰なのか、書架へ歩いていった。しばらく背表紙を眺め、一冊を手に取る。
席に戻り、ページをめくる。すると、何かを思い出したように手が止まった。窓の外を見た後、本をテーブルに置いて立ち上がる。角が大きく揺れている。
「また出られるのですか」
「ああ、すまない。妻が戻ったら、同じように」
◇
日が傾きかけた頃、窓際の席には夫人の姿があった。
白い花の花束が膝の上に置かれている。ご主人がテーブルの上に残していった本を開き、静かにページをめくっていた。
私が声をかける前に、階段を上がってくる足音がした。
ご主人だった。青い花の花束を持っている。
「いたのか」
「いたわよ」
お互いがお互いの花束を見た。
「貴方も――」
「お前の好きな青を選んだ」
「私はあなたの白を」
夫人が手元の本を示した。
「ああ。覚えているか」
「……三十年前と同じ本」
本を閉じた。
「貴方。三十年前、『その本、私も探していた』と言ったわよね」
「嘘だった」
「知っていたわ。角が揺れていたもの」
「角?」
「貴方、動揺するとすぐに角が揺れるの。左右に」
「そのようなことは――」
ご主人の角が揺れた。
「ほら、今も」
ご主人は黙った。
「三十年間、ずっと全て見抜いていたわ」
「……」
「でも、嬉しかった。……不器用な嘘が」
夫人が窓の外を見た。
「あの時、私は別の街へ行くつもりだった」
「知っている」
「貴方が声をかけてくれなければ、この街にはきっといなかった」
「……そうか」
「このお話の主人公と同じ。旅立たずに、残った」
ご主人が椅子の下から包みを取り出した。夫人も包みを取り出す。同じ仕立屋の包装紙だった。
「同じことを」
「ふふ。そうみたいね」
包みを開ける。深緑色の外套と、濃紺色の外套。
「袖がほつれていたの、気づいていたのね」
「お前のも、裾が擦り切れていただろう」
二人が立ち上がった。
「花屋、三軒は回った」
「私は二軒」
「……俺の勝ちだな」
「何の勝負よ」
二人の角が赤くなった。
新しい外套を羽織り、花束を交換する。夫人が本を手に取り、カウンターの私に差し出した。
◇
「来年も、ここで」
「ええ。ただし、時間は正確に決めるのよ」
「ああ。それと――来年はもっと驚かせてやる」
「受けて立つわ」
夫人が振り返った。
「来年また、借りに参ります」
二人は並んで出ていった。扉が閉まる。槌音が聞こえ始めた。
私は返却された本を手に取った。古い装丁の民話集。栞の挟まれたページを開く。
『青い花と白い花』。
口下手な男と旅の女が、互いに花を探してすれ違う話。
三十年前、この窓際で誰かが読んでいた話。




