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或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
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5月6日『下巻を待つ』

挿絵(By みてみん)

 新緑祭の日。午後の図書館は静かだった。


 窓から差し込む初夏の光が、書架の間に影を落としている。遠くから祭りの鐘の音がかすかに届く以外、工房街の槌音も今日は止んでいた。


 私が三階の技術書区画に上がったとき、聞き覚えのある声が耳に入った。


「――だから、あんたのせいじゃないって言ってんだよ」


 書架の向こうに、二人の人影。


 一人は虹色の髪。ザラだ。窓枠に腰かけ、尖った耳が午後の光に透けている。


 もう一人は大柄な男性。机には『坑道戦闘における撤退判断』『大侵襲・作戦記録集成』――重厚な実務書が積まれている。だが、どれも開かれていない。


 男の頭の両脇に生えた角が、力なく垂れ下がっていた。


「……三人だ。三人が倒れた。俺の作戦のせいだ」


 私は書架の陰で足を止めた。


            ◇


「東坑道だろ。あたしもいたんだよ、あの作戦に」


 ザラの声から、いつもの軽さが消えていた。


「三番目の分岐を右に進む。あんたの指示通りだ。地図じゃ晶獣(ベルグファ)の巣は左の深部にあるはずだった。誰だってそう判断するさ」


「だが。……実際は違った」


 男は本の背表紙を見つめたまま答えた。


「右に伏兵がいた。甲殻の大型が三体。狭い坑道で囲まれて、瘴気の濃度も想定以上。撤退までに二十分。マスクの限界ギリギリだ」


「でも全員生きて帰った」


「……三人が熱病だ。一人は皮膚の結晶化まで始まっていた」


 窓の外を、祭りの紙吹雪が風に乗って流れていった。


「薬は手配した。回復の見込みはあるさ」


 ザラの声が少し柔らかくなった。


「あの状況で全員が生還したのは、あんたの撤退判断が正しかったからだ」


 男は本に手を伸ばしかけ、止めた。


「だから確かめたかったんだ。俺の判断は……本当に正しかったのか」


「……本に書いてあったら、納得できるのかい?」


「……わからない」


「ふん。さっきから一冊も開いてないじゃないか」


 男は答えなかった。埃が光の筋の中をゆっくりと舞っている。


            ◇


「あたしに言わせりゃ、あんたは考えすぎなんだよ」


 ザラは窓枠から降りた。


「坑道の空気がわからない? 瘴気の臭いがわからない? 当たり前だろ。あんたは今、前線にいないんだからさ」


 ザラの声が強くなった。尖った耳がぴんと立つ。


「現場の判断はあたしらがやる。あんたは全体を見て、撤退の合図を出す。役割が違うんだよ。全部一人でやろうとするな」


 男は黙っていた。


「あの日、撤退命令が三分遅れてたら、あたしだって瘴気にやられてたさ。あんたの判断が、あたしを、他のみんなを生かしたんだ」


 ザラは机に手をついて、男の顔を覗き込んだ。


「正しい選択をしようとするな。選んだ道を正解にするんだよ。あんたはそうやって生きてきたんだろ」


 男の肩が、わずかに震えた。


 私は書架の陰から出て、二人に近づいた。水差しとグラスを盆に載せて。男は驚いたように顔を上げた。ザラは私を見て、口元を緩めた。


「よう。聞いてたのか」


「少しだけ」


 私は男にグラスを差し出した。彼は戸惑いながらも受け取り、一口含んだ。


「こいつ、詳しいんだ。そういうのにはさ」


 ザラが窓枠にもたれかかった。


「あんたも昔、撤退の判断で悩んだことあったよな」


「……ええ。似た経験があります。だから少しはわかります。あの時こうしていれば、と」


「そうそう、こいつ、こう見えて昔はけっこう無茶やって――」


 私は静かにザラを見た。


「……なんでもない」


 ザラの耳が伏せられた。男が小さく笑う。この午後、初めての笑みだった。


「あんたたち、長い付き合いなんだな」


「腐れ縁さ。こいつ、昔はもうちょっと可愛げがあったんだけどね」


「ザラ」


「はいはい」


 窓から入る風が、積まれた本のページをかすかに揺らした。


            ◇


「……見舞いに行こうと思っているんだ。倒れた三人の。だが、何を持っていけばいいのか」


「本は、いかがですか。熱病の療養は長引くと聞きます」


 私は書架に案内した。棚から一冊を抜く。『鉄の都の冒険譚・下巻』。


「これの上巻を借りていた方が、いらっしゃいましたね」


 男は静かに首を振った。


「いや、それは結構です。……置いておいてください」


「よろしいのですか」


 私は下巻を棚に戻し、代わりに『鉄の都の昔話』を差し出した。


「では、こちらを。短い話ばかりですので」


 ザラが別の棚から『世界の珍獣図鑑』を抜いた。


「あたしはこれ。絵が多いから、頭使わなくていいだろ」


「ふん……お前が読みたいだけじゃないのか」


「うるさいな」


 カウンターで貸出票に名前を書いてもらう。グラード。腐海(ソーン)対策担当主任。


「近いうちに、また来ます」


「お待ちしています」


 二人が扉を出ていく。男の角が、来た時より少しだけ持ち上がっていた。


 ザラが振り返った。


「ありがとな」


「何が」


「いや、別に」


            ◇


 二人を見送った後、私はカウンターに戻った。


 机の上に、一冊の本が残されていた。『鉄の都の冒険譚・上巻』。貸出票を見る。借り主は、東坑道で倒れた隊員の名前だった。


 『下巻は、自分で借りに行くから』。


 彼はそう言って、預けたのだという。


 私は上巻を棚に戻すと、下巻の方をカウンターの下に置いた。


 いつでも貸し出せるように。

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