表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
4/25

4月4日『風の匂い』

挿絵(By みてみん)

 土曜日の午前。


 春の空が高い。工房街の煙突の煙が、いつもより南に流れている。風が変わり始めた朝だった。


 三人の来館者が、別々に入ってきた。


 最初は杖をついた老人。灰色の羽毛に覆われた翼は艶を失い、背中に畳んだまま歩いている。郷土資料室の方へ向かった。


 次に四十代の女性。茶褐色の羽根を窮屈そうに畳み、経済書のコーナーへ。


 最後に十四歳くらいの少女。淡い青灰色の羽毛が、光の加減で銀色にも見える。閲覧席の窓際に座ると、退屈そうに頬杖をついた。


 三人は家族のようだった。しかし、それぞれが別の場所へ向かう。


           ◇


 昼過ぎ。二階の奥、郷土資料室を覗いた。他の区画より天井が低く、革装丁の背表紙が壁のように並んでいる。老人が交易路の地図を広げていた。大きな地図で、机からはみ出した端が垂れている。手書きの注釈がびっしりと書き込まれている。


「複写をお願いできるかね。この地図だけ」


「ご自身で書かれたものですか」


「ああ。五十年前だ」


 老人は地図を見つめながら言った。


「俺は翼を持ちながら、飛べなかった男だ。風が読めなかった。どこから風が来るのか、体でわからなかった」


 畳んだ翼が、錆びた蝶番のようにぎこちなく動く。


「だから歩いた。風の都まで、飛べば三日の距離を二十日かけて」


 老人の視線が、閲覧室の方へ向いた。


「孫娘に話してやりたいことがたくさんある。でも、あの子は『別に興味ない』と言うんだ」


 少し間を置いて、続けた。


「あの子は俺と違う。風が見えている。俺には見えなかったものが」


           ◇


 一階の経済書のコーナーは、窓から離れた書架の谷間にある。天井の灯りだけが頼りで、背表紙の文字を読むには顔を近づけなければならない。女性がそこで本を探している。畳んだ翼が書架に当たらないよう、肩をすぼめている。


「何かお探しですか」


 声をかけると、女性は振り返った。


「私も父と同じで、風がうまく読めないんです」


 茶褐色の羽根が、小さく揺れる。


「飛ぶことはできます。でも長距離は無理で。だから父の気持ちはわかります」


 女性は書架に目を向けたまま続けた。


「でも娘は違う。あの子は風が見える。どこまでも飛んでいける」


 その声には、諦めと羨望が混じっていた。


「止める資格がないんです。自分が飛べないから」


 私は一冊の本を差し出した。『信用と距離』。


「離れていても繋がる方法は、あるのかもしれません」


           ◇


 二階の閲覧席、窓際。少女がまだそこにいた。窓は半開きで、春の風が紙の端をかすかに揺らしている。午前より雲が増えていた。


 窓の外を見る目が、何かを追っている。雲の動きか、風そのものか。淡い青灰色の羽根が、時折ぴくりと動いていた。


 ふと少女が立ち上がり、書架へ向かった。一冊の本を手に取る。


 『十二都市交易路――五十年の変遷』


 ページをめくる手が止まった。


「あ……おじいちゃん……?」


 古い地図のページに、署名がある。少女は本を抱えたまま、しばらく動けなかった。


 窓から風が吹き込んだ。机の上の紙がめくれ、書架の奥で何かが軋んだ。銀色の羽毛が揺れ、翼が無意識に開きかけた。閲覧室がほんの一瞬、広くなったように感じた。


 少女は目を閉じて、風の匂いを嗅いでいる。


           ◇


 夕方。出口で三人が合流した。外の空気が変わっていた。湿り気を帯びた風が、開いた扉から流れ込む。


「おじいちゃん、これ、おじいちゃんが書いたの?」


 少女が本を開いて署名を指さす。


「……ああ。若い頃の仕事だ」


「風の都まで歩いたの? 飛ばないで?」


「飛べなかったんだ。翼はあっても、風がどこから来るかわからなかった」


 老人は孫娘の肩に翼の先を置いた。灰色と青灰色の羽毛が触れ合う。


「お前は違う。さっき風の匂いを嗅いでいただろう。雨が来るのがわかったはずだ」


「……うん。三刻後くらい。南南西から」


「俺には方角まではわからなかった。『今日は降りそうだ』と思う程度でな」


 母親が静かに頷く。


「お前には風がある。俺たちより遠くへ行ける。だから帳簿の話なんかしない。旅の話をしてやる。お前が飛んでいく場所の話を」


「……おじいちゃん」


「風の都には、風だけで動く風車がある。風を読める者がいないと動かせない。お前なら一目で風向きがわかる」


「行ってみたいな」


「いつか行け。俺の代わりに、飛んで行け」


 少女の目が潤んだ。


「でも、おじいちゃんは歩いたんでしょ。飛べなくても。それってすごいことだよ」


 老人は笑った。嘴の端が穏やかに上がる。


「そうか。そう言ってもらえると、悪くない人生だったと思えるな」


           ◇


 窓の外、南南西から雲が近づいている。少女の言う通り、三刻後には雨が降るのだろう。


 扉が開き、三人が出ていく。


 少女の翼が、夕風を受けて広がった。老人の翼を支えながら。

メモ:この稿から文体プロンプトv1が完成。包括マスターセッティングファイルの採用開始。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ