4月3日『さみしい色』
夕方。
窓の外から、鍛冶の音が遠くなり始めていた。工房街の一日が終わりに近づいている。煙突の煙が西日を吸って、空の低いところが橙と灰色のまだらになっていた。
一階の閲覧室。天井の梁が夕日の影を床に落としている。
窓際の一番小さな席に、男の子が座っている。他の椅子より座面が低く、足が床につく。松葉杖が椅子の背にもたれかかって、窓からの光を細く反射していた。絵本を膝に乗せて、何かを描いている。
毎週金曜日、母親の仕事が終わるまで、ここで待つのが彼の習慣だ。
絵本の余白に描かれているのは、小さな歯車。たどたどしいけれど、一生懸命な線。
私は一冊の本を手に取り、階段を上がった。
「今週のおすすめ、持ってきましたよ」
男の子――トビアスは顔を上げた。大きな黒い瞳が、ぱちぱちと瞬く。
「おねえちゃん!」
『歯車城の冒険』。表紙には、巨大な歯車の塔が描かれている。
「この本の主人公もね、足が動かないんですよ。でも自分で乗り物を作って、冒険するの」
「自分で? 作るの?」
「そう。歩けなくても、走れるようになるんです」
トビアスは本を両手で大事そうに抱えた。表紙の歯車を、小さな指でなぞる。
「……あったかい。この本、やさしいにおいがする」
本に残った著者の想いを、感じ取っている。
◇
「どうして歯車が好きなの?」
トビアスは少し考えた。
「……しずかだから」
「静か?」
「人がいっぱいいると、頭がうるさくなるの。みんなの気持ちが、ぐるぐるしてくる」
小さな手が、歯車の絵をなぞる。
「でも歯車はね、気持ちがないから。かいてると、頭もしずかになる」
なるほど、と思った。この子なりの、折り合いのつけ方なのだ。
◇
「今日ね、お医者さんいったの。足のれんしゅう」
「どうでしたか?」
「ぜんぜん動かないんだ。意味、あるのかなあ」
小さな肩が、しゅんと下がった。
「入口に書いてある言葉、覚えていますか? 『知識は形を変える』って」
「うん」
「形を変えるものって、すぐには見えないんです。毎日続けたことが、いつか形になる」
トビアスは窓の外を見つめた。工房街の路地を、革前掛けをつけた職人たちが帰っていく。石畳に落ちた水溜まりが、夕日でひとつずつ光っている。
「……おねえちゃん、今日さみしい?」
私は言葉を失った。
「なんかね、さみしい色がする。青っぽい」
閉館後に一人で過ごす夜のことを考えていた。この子には、それが伝わってしまったらしい。
「……よくわかりますね」
「ごめんね。いやだった?」
「いいえ。ありがとうございます」
◇
トビアスがポケットから、くしゃくしゃの紙を取り出した。
「これ、あげる」
歯車のお城の絵だった。その前に、本を持った女の人が立っている。
「おねえちゃん。いつも本、えらんでくれるから」
「……大切にしますね」
「おねえちゃんはね、一人じゃないよ」
「……どういう意味ですか?」
「わかんない。でも、そう思った」
◇
閉館三十分前。玄関を上がってくる足音。
「トビアス!」
母親――エルザが現れた。袖口に糸くずがついたまま、額にうっすら汗が光っている。疲れた顔。しかし息子を見た瞬間、笑顔を作る。
トビアスは母親の顔を見上げた。小さな眉が、きゅっと寄る。
「お母さん、ないてる」
「え? 泣いてないわよ。ほら、笑ってるでしょ?」
「ちがうの。中でないてる。いつもないてる」
エルザの笑顔が、固まった。
トビアスは母の手を、両手でぎゅっと握った。
「ぼく、足動かなくても、へいきだよ。お母さんといっしょにいられるから、しあわせなの」
エルザの目から、涙がこぼれた。
「……ごめんね。ごめんね、トビアス」
「あやまらないで。ぼく、お母さん大好きだから」
小さな手が、母親の頬の涙を拭った。
私はその光景を、少し離れた場所から見守っていた。
◇
二人が手をつないで、階段を下りていく。トビアスは小さな松葉杖をつきながら、一段ずつ、ゆっくりと。
玄関で、トビアスが振り返った。入口の銘文の下に、小さな影がひとつ。
「またらいしゅうね!」
「おすすめ、用意しておきますね」
「やったあ! ……おねえちゃんも、元気でね」
扉が閉まった。
私はもらった絵を見つめた。歯車のお城。その中に立つ、私。
あの子は、自分の力をまだよくわかっていない。ただ「そういうもの」として、世界を視ている。
それでいいのだと思う。
銘文の言葉が、夕日の中で輝いていた。
『知識は形を変える』。また来週。小さな約束が、静かに続いていく。




