5月4日『緑の記憶』
わたしの葉は、中庭の半分以上を覆っている。
四方を白い石の壁に囲まれた、小さな空。噴水の水音が、葉の隙間から聞こえてくる。
中庭への扉が開いた。老いた夫婦と、小さな男の子。
男の子が老人の手を引いている。
「おじいちゃん、早く早く!」
「そう引っ張るな。転ぶぞ」
老人は杖をつき、片方の袖が風に揺れている。老女の方がわたしを見上げた。
『久しぶりね』。
声が届いた。
彼女には、初めて会った日から――わたしの声が届いている。
「おじいちゃん、この木、おっきいね!」
「ああ。昔は、もっと小さかったんだ」
わたしは、この老人を知っている。
わたしがまだ若木だった頃、この枝に登ろうとした最初の子供。
◇
わたしはまだ枝が細く、葉もまばらだった。
「おい、見てろよ!」
小さな少年が、わたしの幹にしがみついた。
「やめなよ、落ちるよ」
少女が花壇の縁から見上げていた。
少年は低い枝に手をかけた。体を引き上げようとして――手が滑った。
背中から落ちた。
鈍い音。少年は石畳の上に転がった。
「大丈夫!?」
少女が駆け寄った。少年はしばらく目を回していた。
「いてて……」
「だから言ったのに」
肘と膝を擦りむいている。手のひらも赤くなっていた。
「ふーってしてあげる」
少女は少年の傍らにしゃがみ、傷口に息を吹きかけた。肘に。膝に。手のひらに。
「や、やめろよ」
「もう登んないの?」
「……今日は、やめとく」
少年は悔しそうにわたしを見上げた。
少女が、そっとわたしの幹に手を当てて、何かを呟いた。
わたしに話しかけてきた、初めての人間だった。
少年は立ち上がり、砂を払った。
「俺、絶対この木に登るから。大きくなったら……」
◇
わたしの枝が広がり、ベンチを覆えるようになった頃。
彼女は毎日、わたしの下に来るようになった。ベンチに座り、膝の上に本を開いている。いつも同じ本。同じページ。読んでいるのではなく、ただ開いていた。
季節が何度か巡った。
ある日、扉が開くと、男が立っていた。
すぐにはわからなかった。
足を引きずり、頬がこけ、目の奥に暗い影があった。左側――袖が、風に揺れていた。
女が本を閉じた。
男はわたしの幹に手を当てた。残った右手で。
「覚えてるか。ここから落ちたこと」
「覚えてる」
男は空の左袖を見た。
「無理だな。もう」
噴水の水音だけが、二人の間に流れていた。女は男の手を、両手で包んだ。
「生きて帰ってきた。それだけでいい」
「……何度も思い出した。ここから見える空のこと。この樹のこと。それに――」
『おかえり』。
わたしは言った。彼女だけが、それを聞いていた。
◇
わたしの枝が中庭の三分の一ほどを覆うようになった頃。
夫婦には二人の息子がいた。
下の子は、わたしによく登った。この子にも、わたしの声が聞こえていた。
「見て、兄ちゃん! 高いよ!」
上の子が下から見上げていた。
「父ちゃんも昔、登ったんだよね?」
「……いや。父さんは木から落ちたんだ」
ある冬。
下の子が来なくなった。春になっても、夏が過ぎても、来なかった。
ある日、彼女がひとりでわたしの下に来た。わたしの幹に手を当てて、泣いていた。
何も言わなかった。ただ、その悲しみがわたしに流れ込んできた。
◇
――そして今日。
「おじいちゃん、僕もあの木に登りたい!」
孫が、わたしを見上げている。まだ幼い。わたしの幹に手が届くかどうか。
「もうちょっと大きくなってからね」
「えー」
老女がベンチに座り、膝を叩いた。
「おいで。ご本を読んであげる」
「本?」
孫が老女の膝によじ登った。老女は古い本を取り出した。表紙の色が褪せている。
本を開いた。老女の声が、中庭に静かに響く。大きな木の話。ずっと誰かを待っている木の話。
「おばあちゃん、この木も誰かを待ってるの?」
「どうかしらね」
風が吹いた。わたしの葉が一枚、孫の膝に落ちた。
「葉っぱ。『また来てね』って」
「ええ。また来ましょうね」
◇
扉が開いた。銀色の髪の女が、水差しを持って出てきた。
花壇に水をやりながら、彼女はわたしを見上げた。わたしの声は届かない。でも、彼女は小さく微笑んだ。
わたしは、ここにいる。これからもずっと。




