5月2日『届けもの』
荷馬車の休憩は、もう少しで終わる。
荷下ろしの手伝いが終わって、父さんが「少しなら出かけていい」と言ってくれた。母さんは帳簿の確認で忙しそうだったから、わたしは静かに荷台を降りた。
工房街を歩く。鍛冶の槌音。蒸気の匂い。職人たちの街だ。金属を打つ音が、どこからでも聞こえてくる。
手紙に書いてあった街。
『この街の図書館に、素敵な司書さんがいるの。いつか通ることがあったら、寄ってみて』
もしかしたら、会えるかもしれない。そんな淡い期待を胸に、わたしは白い石造りの建物を見上げた。
『知識は形を変える』
入口の上に刻まれた銘文。手紙に書いてあった通りだ。
重い扉を押すと、工房街の喧騒が遠くなった。代わりに、紙とインクの匂い。窓から差し込む光が、埃を金色に染めている。
手紙の主が『素敵』と言った理由が、少しわかった気がした。
本棚を眺めながら歩く。せっかくだから、見て回ろう。――と、棚の前で困っている人がいた。
大きな背中。日に焼けた肌。本を手に取っては、首をかしげて戻している。
「あの……何かお探しですか?」
声をかけると、男の人が振り返った。背が高い。わたしの倍くらいありそうだ。
「ああ……いや……」
言いにくそうにしている。太い指が、本の背表紙をなぞっていた。爪の間に、銀色の粉が残っている。
「わたし、本を探すの好きなんです。手伝いましょうか」
男の人は少し迷ってから、小さく頷いた。
「……物語を探してるんだ。『銀の鳥……と金の森』って本の、続きみたいなやつで」
『銀の鳥と金の森』。
「――知ってます、その本」
思わず声が弾んだ。
「私も子供の頃、大好きだったんです。銀の鳥が空を飛んで、金色の森を目指す話」
男の人が少し驚いた顔をした。
「知ってんのか」
「はい。何度も読みました。最後に鳥が森に辿り着くところ、何回読んでも感動しちゃって」
懐かしい。荷馬車の中で、揺られながら読んだ記憶。
「……俺は最近、読んでもらったんだ」
「読んでもらった?」
「ああ。俺、字が読めねえからさ」
少し恥ずかしそうに、でも隠さずに言った。
「声に出して読んでもらうと、絵が動いて見えるんだ。……不思議だよな」
そうか。だから続きを探しているのか。
「同じ作者の本、探してみますね」
児童書の棚に向かった。青い背表紙を探して――あった。『銀の鳥と金の森』。表紙を開いて、作者名を確認する。
「エルマ・シュテルン。この人ですね」
棚を端から見ていく。
「あ、ありました。ほら、三冊」
『月夜の約束』『旅人の唄』『星を抱いた少年』。
男の人は三冊を受け取って、表紙を見比べた。絵を見ている。じっくりと。
「……どれがいいと思う?」
「わたしに聞きますか?」
「『銀の鳥』を知ってんだろ。好みが合うかもしれねえ」
そう言われると、嬉しい。
「それなら……『旅人の唄』はどうですか」
旅人が歩いている表紙。背景には、いくつもの街の影。
「どんな話だ?」
ぱらぱらとページをめくる。
「旅人が各地を巡りながら、出会った人に歌を届ける話みたいです。楽器は持っていなくて、声だけで」
「声だけで届ける、か」
「『銀の鳥』は一つの場所を目指す話でしたよね。こっちは、あちこちを旅する話みたいです」
「ふうん。……逆だな」
「でも、届けるっていうのは似てるかも」
男の人は少し考えてから、頷いた。
「じゃあ、それにする」
本を手渡した。男の人は大事そうに受け取った。男の人は本の表紙を見ながら言った。
「器用な奴だよ。手先も、人付き合いも。故郷を離れて一人で頑張ってる」
「その人、喜びますね」
「だといいんだがな。礼のつもりなんだ」
礼。
「世話になってるからな。俺みてえな不器用な奴に、付き合ってくれてる」
故郷を離れて。その言葉が、少し胸に刺さった。
「……わたしも、故郷を離れてます。家族が行商で。だから、あちこち回って」
「そうか」
「わたしの家系は留まるのが苦手で」
「……風みてえだな」
男の人がふっと笑った。
「俺の知り合いもそうだ。街を出るのも、故郷じゃ珍しいって言ってた」
そうですか、と答えようとしたとき、窓の外が目に入った。日が傾いている。
「あ、行かなきゃ」
名残惜しいけど、仕方ない。
「ありがとうございました。本、見つかってよかったです」
「こっちこそ。助かった」
カウンターの方を見ると、銀色の髪の女性がこちらを見ていた。落ち着いた雰囲気。手紙に書いてあった『素敵な司書さん』だろうか。
「あの……」
私は司書さんに向かって言葉を選んだ。
「もし、私みたいな銀細工師の見習いの方が来たら……『手紙、届いたよ』って、伝えてもらえますか」
司書さんは、静かに頷いた。
「伝えておきます」
入口で振り返った。男の人が、『旅人の唄』を持ってカウンターに向かっている姿が見えた。
「また来ます。必ず」
手を振って、扉を押した。
◇
石畳を走る。夕暮れの風が、背中を押してくれた。
そういえば、手紙に書いてあった。
『工房に先輩がいるの。字が読めなくて――』
『――今は「銀の鳥と金の森」を読んでる』
荷馬車が見えた。父さんが手を振っている。
届くといいな。
あの本も、この気持ちも。




