4月30日『四月の終わりに』
今日で四月が終わる。
窓の外、新緑が濃くなっていた。
開館準備をしながら、私はこの一ヶ月を思い返していた。様々な人が来て、様々な物語があった。
◇
午前中、火曜日の常連が来館した。
長く垂れた耳。三百年を生きる種族の、老年期に差しかかった証だ。琥珀色の瞳が私を見上げるようにして細められた。
「今日は火曜日ではありませんよ」
「ええ。……今日は別の用事で」
彼が小さな包みを取り出した。古い懐中時計。動いていない。
「父の遺品を整理していたら、これが出てきました」
裏蓋を開けると、小さな刻印がある。「M・グルント」。
グルント時計店。かつてこの街にあった工房だ。主人が街を去って、もう三十年以上になる。
「父のもう一人の友人だそうで。いつか届けたいと思っていただろうと」
「お預かりしましょうか」
「お願いします。図書館なら、色々な人が来ますから。……いつか、届くかもしれません」
止まった時計を預かる。
いつか届く日を、待つために。
◇
昼過ぎ、窓辺の席が賑やかになった。
巨躯の若者たちが、一人の少年を囲んでいる。鋳造工場の見習い工、ルッツたちだ。牙を覗かせて笑い、地を踏みしめる足音が響く。
「なあ、俺も描いてくれよ」
「俺も俺も!」
囲まれているのは、同じ種族の少年。体格は大きいが、牙は小さく、瞳は穏やかだ。窓辺でスケッチブックを抱えている。真剣な眼差しだ。
「……動かないで」
「こう?」
炭筆が紙の上を滑る。
「できた」
「おお、見せろ見せろ!」
スケッチブックが回される。ルッツの似顔絵。眉間に皺を寄せて、どこか誇らしげな表情。
「……俺、こんな顔してるか?」
「怖えな!」
「怖え、怖えな!」
「お前に言われたくねえよ!」
「お静かに」
「「「……すみません!」」」
少年が小さく笑った。牙が覗く。囲まれているのに、怯えた様子はない。
「お前、名前なんてんだ?」
「……エミール」
「エミールか。……お前、すげえな。俺ら絵なんて描けねえから」
「……別に。好きなだけだよ」
「好きなことがあるってのは、いいことだぜ」
ルッツが言った。豪快に笑っているが、目は真剣だった。エミールが少し目を見開いた。
「今度、俺らの工房も描いてくれよ。火ィ吹いてるとこ」
「……熱くない?」
「熱いに決まってんだろ! でも、かっこいいぜ」
「……見てみたい、かも」
「よし、決まりだ! 来週な!」
「来週!来週!」
「お静かに」
「「「すみません!」」」
声は大きかったが、表情は穏やかだった。
◇
午後、あの三人組の姿を見つけた。
マルクス、リーネ、ゴルト。先週、地下書庫に「冒険」しに来た子供たちだ。
郷土資料室の奥、いつもの席。頭を寄せ合い、何やら相談している。
「――だから、北通りの古井戸の下に……」
「でも、あれって都市伝説でしょ」
小柄なリーネが周囲を見回した。丸い耳がぴくりと動く。
「都市伝説には元ネタがあるんだって。この地図を見ろよ」
「百年前のじゃん。今と全然違うよ」
「だからだろ! 誰も気づいてないってことだ!」
ゴルトが体を揺らして笑う。
私が近づくと、三人が一斉に顔を上げた。
「司書さん」
マルクスが身を乗り出す。
「ちょうどよかった。相談があるんですけど」
「……また何か企んでいるのですか」
「企んでるっていうか――宝探し?」
リーネが古い地図を広げた。小さな手が慎重に紙を押さえる。
「ここ。百年前の地図に、今はない建物があるんです。北通りの古井戸のそば――」
「それが何かの隠し場所じゃないかって」
「俺たちだけじゃ大人に話聞けないから」
ゴルトが続けた。
「司書さんも一緒にどうかなって」
三人の目が、こちらを見つめている。
「……考えておきます」
「やった!」
「考えておく、と言っただけですよ」
三人はもう次の計画を練り始めていた。困ったことになりそうだ。
◇
閉館間際。新聞を折りたたむ音がした。
「……いい記事だ」
「父様。さいじってなあに?」
「さいじってのはお祭りの事だよ。昔はこの街でも、星と歯車の教えを守る人たちが一緒に――」
扉を押し開ける親子の横を、小さな影がすり抜けてきた。
小柄な体が息を切らせ、丸い耳が紅潮していた。ミルはこの数日間、毎日のように来ていた。
「手紙、来てません?」
毎日、同じ言葉。毎日、首を横に振った。
でも、今日は違う。
「……届いてませんよね」
「いいえ。今朝、届きましたよ」
一通の手紙を差し出す。貝と魚の消印。
小さな手が震えながら、封を開ける。
時が止まったように硬直した後、ミルが手紙を胸に当てた。
目が潤んでいる。でも、口元は笑っていた。
◇
私は扉を閉め、窓際の植木鉢を見た。小さな芽が、また少しだけ伸びた。
明日から五月。




