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或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
28/29

4月28日『火曜日の修復屋』

挿絵(By みてみん)

 今日は修復師の定期訪問日だ。


 しかし、カウンターに現れたのはいつもの師匠ではなかった。細身の男。深緑色の乾いた肌に、縦長の瞳孔。革のエプロンには長年の使用痕がある。


 ザルツさんだ。


「師匠は別の仕事。で、俺がその代わり」


 私は彼を見上げた。昔からの知り合いだ。口数は少ないが、腕は確かだと知っている。


「お久しぶりですね」


「……ああ」


 それだけだった。彼はいつもそうだ。


「今日は四冊、お願いしたいのですが」


「多いな」


「定期点検でまとめて出てきまして」


「……まあいい。見せろ」


 私は四冊の本をカウンターに並べた。彼は一冊ずつ手に取り、状態を確認していく。細長い指が、傷んだページをなぞった。


「順番は? どれからにする」


「では、こちらから」


 私は料理本を差し出した。昨日、エルダさんが返却したあの本だ。


           ◇


 『都市の家庭料理大全』。


 ザルツさんが本を開くと、五十二ページが自然に開いた。綴じ糸が緩み、そこだけが何度も開かれた跡がある。


「……開き癖がついてる。誰がこんなに使い込んだんだ」


 彼の指が丁寧にページを確認していた。油染みが点々と。ページの隅が薄くなっている。


「開き癖、直しとくか」


「いえ、そのままでも」


「……また同じページ開くだろうからな」


 彼の指がページに触れた。薄くなった紙の繊維がゆっくりと動き、密度が均されていく。彼の能力(リンクス)。物質の状態を変える力だ。


「師匠が言うんだ。『修復は料理と同じだ』って」


「……どういう意味でしょう」


「下ごしらえが八割、あとはじっくり待てってな。でも、火加減は見てないといけない」


 油染みの部分に指を当て、これ以上広がらないよう固定する。


「消さないのですか」


「完全には消せない。それに、使われた証だろ」


 彼は本を閉じた。


「料理本は使われてなんぼだ。傷も味のうち」


           ◇


 『初等読本――文字と数の手習い』。


 次の本を手に取った瞬間、ザルツさんの眉がひそんだ。


「……ひどいな」


 ページを開くと、落書きだらけだった。挿絵の人物には髭が描き足され、文字には×印。余白には意味のない絵がびっしりと並んでいる。


「誰がやった」


「勉強が嫌いな子供だったようです」


「気持ちはわかる。でも本に当たるなってんだ」


 彼がページをめくる。数ページが乱暴に引きちぎられていた。「あいうえお」のページが完全にない。


「……三ページ。戻せない。ないものは作れない」


 沈黙が落ちた。


「待てなかったんだな、この子は」


「待つ、ですか」


「勉強ってのは、すぐには身につかない。それが我慢できない」


 彼の指が、破れた端に触れる。残ったページの端が、少しだけ強くなっていく。


「ザルツさんも、勉強が嫌いでしたか」


「……まあな。師匠にも殴られた。『本に当たるな』ってな」


 彼は落書きを見つめた。インクが染み込んだ紙を撫でる。


「完璧には戻らない。でも、残ったものは守れる」


           ◇


 『釣り人の手記――川辺の四季、そのうつろい』。


 三冊目。ページが波打っていた。


「水濡れか」


 彼がページをめくろうとして、手を止めた。数ページが癒着している。


「くっついてる。急いで剥がすと破れる」


 彼の指が、癒着した部分にゆっくりと触れる。紙の繊維が少しずつ分離していく。


「料理の本に、釣りの本か」


「何か関係がありますか」


「師匠が言うんだ。『料理と釣りは似てる。どっちも待つ仕事だ』って」


 ページの間から、乾いた魚の鱗がこぼれ落ちた。私たちは一瞬、顔を見合わせた。


「……釣れたかな。この人」


「どうでしょうね」


 彼は鱗を脇に置いて、作業を続けた。


「糸を垂らしたら、あとは待つだけだ。焦って引いたら逃げられる」


 波打った紙が、徐々に少しずつ平らに近づいていく。


「ザルツさんは、どちらが得意ですか。料理と釣り」


「どっちも苦手だ。俺は焦りすぎるからな」


「『師匠に言われた』、ですか」


「……うるさい」


 でも、その声には棘がなかった。


           ◇


 『方言笑話集――旅の恥はかき捨て』。


 最後の一冊を手に取った瞬間、ザルツさんの動きが止まった。


「……この本」


「ご存知ですか」


「覚えてる。師匠が好きな本だ」


 背表紙が剥がれかけている。角が丸く擦り減って、ページがバラバラになりそうだ。何度も持ち運ばれた証拠だ。


「貸出回数は館内でも有数です」


「だからこんなにボロボロなんだな」


 そして、補修の跡が何層にも重なっていた。


「これ、前に誰かが直してる。何人も。糊、テープ、縫い直し……。見りゃわかる。全部素人だな」


 でも、彼はその補修跡を剥がさなかった。


「どうかしましたか」


「この人たちなりに、繋ごうとした跡だ」


 彼の指が、緩んだ糸綴じに触れる。淡い光を放ちながら、張力がゆっくりと回復していく。背表紙と本体が、再び一つになっていった。


「師匠が言うんだ。『繋ぐ仕事だ』って」


「……いい言葉ですね」


「前の人の仕事も、俺の仕事も、次の誰かに繋がる」


 ページの隅に、書き込みがあった。「面白かった」「ここで笑った」。怒りではない。好意の言葉だ。


「愛された本だな」


「ええ」


「だから、みんなが直そうとした」


 彼が本を閉じた。古い紙と、古い補修と、新しい修復が、一つの本になっていた。


           ◇


 四冊の修復が終わった。


 ザルツさんは道具を片付けながら、ぼそりと言った。


「師匠が言うんだ。『傷は本の履歴書だ』って」


 彼が立ち上がった。革のエプロンについた紙の粉を、無造作に払う。


「次は師匠が来ると思う」


「また来てください。あなたも」


「……気が向いたらな」

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