4月27日『雨の月曜日』
窓の外では、雨が降り続いていた。書架の木が湿気を吸って、いつもより濃い匂いを放っている。
扉が開いて、一人の女性が入ってきた。
三十歳くらいだろうか。分厚い革装丁の本を抱えている。
「返却をお願いします」
『都市の家庭料理大全』。背表紙の文字は褪せているが、まだ読める。
「実は、相談がありまして」
女性は本を開いた。
「この表紙、幼い頃に祖母の家で見た気がしたんです」
「祖母がよく作ってくれた料理がないかと思って探したら、ありました」
五十二ページ。「根菜の煮込み」と題されたレシピ。
だが――紙の一部が破れ、水染みで文字がにじんでいた。肝心な手順と分量が読めない。
「母に作ってあげたかったんです」
「祖母が二年前に亡くなって。それから、母の元気がなくて」
「……今年の春に息子が生まれまして。私もいつかこの味を作れるようになりたくて」
「同じようなレシピが載っている本、他にありませんか」
◇
私は裏表紙を開いた。寄贈記録の紙片が貼られている。
『受入日:一〇五三 秋』
『寄贈者:ヘルガ・V』
『出所:工房街』
「寄贈者のお名前は――ヘルガさん、とありますね」
女性の顔色が変わった。
「……祖母の名です」
「どうやら、ご遺族が寄贈されたようです」
「祖父方の親戚が遺品整理をしたので……」
私は五十二ページを見た。他は綺麗なのに、このページだけが傷んでいる。
「……おばあちゃん」
◇
書架で似たレシピを探したが、見つからなかった。
三十分が過ぎた頃、ふと記憶が蘇った。
二年前の秋、工房街から届いた寄贈品。木箱がいくつも届いて、整理に何日もかかったのだ。
私は書庫へ向かい、寄贈台帳を開いた。
寄贈品は三十八冊。備考欄に私の字で――『未整理分あり。倉庫へ一時保管』
◇
倉庫の扉を開けた。
積み上げられた木箱。埃っぽい空気。
「この辺りが、二年前の寄贈品です」
女性と二人で、箱を一つずつ開けていく。一人の女性が生涯をかけて集めた本たち。
四つ目の箱の底で、私の手が止まった。
これは本ではない。布張りの手製の表紙。古いノートだった。
表紙に、刺繍で文字が縫い付けられている。
『我が家の台所』
最初のページに、丁寧な手書きの文字。
『ブリギッテへ
あなたが嫁いでいく前に、この本を贈ります。
生まれたばかりのエルダが関心を持つのは、
まだずっと先のことでしょう。
でも、いつかあの子にも伝わるといいね。
私がいなくなっても、
この本があなたたちのそばにいます。
母より』
女性は息を呑んだ。
「ブリギッテ……母です」
ページをめくると、手書きのレシピがびっしりと並んでいた。
根菜の煮込み。
材料と作り方が丁寧に書かれている。その下に――。
『ブリギッテへ
これはあなたが一番好きだった料理。
冬に風邪をひいた時、いつもこれを作ったね。』
女性が、その先を声に出して読んだ。
「――雨の日にはお鍋を作ろう」
「煮込んでいる間は、外を眺めていよう」
「雨が止む頃には、もうできあがっているから――」
女性は顔を上げた。目に涙が浮かんでいた。窓の外で、雨がまだ降っている。
「この言葉、小さい頃によく聞きました。祖母が台所で……」
◇
あの分厚い料理本は、祖母が参考にしていた本だったのだろう。何度も開いて、ぼろぼろになるまで使い込んだ。でも、本当に残したかったものは、別にあった。
「お母様に、作って差し上げてくださいね」
「はい」
女性は泣きながら笑った。
「息子にも、いつか作ります」
女性は布張りのノートを抱きしめて、図書館を出ていった。
◇
閉館。私は寄贈台帳を開いた。
『未整理分あり』――その横に書き加える。『整理完了』
窓の外に目をやる。夕暮れの中で、雨はいつの間にか、小降りになっていた。
明日は晴れるかもしれない。
でも今日はまだ、煮込みを作るにはいい日だ。
私はペンを置いた。




