4月25日『河のほとりで』
土曜日の朝は、図書館がもっとも静かな時間だ。
開館の準備を終えたばかりの私の耳に、馬車の車輪が石畳を踏む音が届いた。工房街の細い路地に馬車で乗りつける者は多くない。
扉を叩く音がした。
「……失礼いたします。お嬢様が、いつもの場所でお待ちしたいと申しております」
メイド服を着た小柄な女性だった。丸い耳と、几帳面そうな佇まい。
窓から馬車が見えた。車体には星を象った紋章。『丘の上』の印だ。
私は頷き、扉を開けたままにした。
◇
馬車から降りてきたのは、二十代半ばの女性だった。目立たない服装に、深い帽子。そして、小さな革鞄を大切そうに抱えている。
エーリカ嬢。商家のご令嬢。三年前から、土曜日の朝だけ、この図書館に通っている。
「おはようございます。文芸書の棚でよろしいですか」
「ええ。いつもの場所で」
私は二人を案内した。メイドは少し離れた位置に控え、エーリカ嬢は窓際の席に向かった。
三年間、彼女はいつもあの席に座っていた。そして向かいの席には、いつも一人の男が座っていた。工房街の鍛冶職人。『丘の上』のお嬢様と下町の大工。本来なら言葉を交わすことさえない二人が、この朝だけ、この窓際で机を挟んだ。
「司書様。三年前の春のことを、お話ししてもよろしいでしょうか」
エーリカ嬢は窓の外を見つめたまま言った。
「父に頼まれた本を返しに来たのです。受付で順番を待っていたら、隣に男の人が立っていました。同じ本を返そうとしていたのです。『オルテンシア戯曲集』」
全六十二巻からなる古い戯曲集。この図書館には一揃いしかない。
「それぞれ一冊しかないから、交互に借りることになりました。返却日の土曜日に、窓際で少しだけ話すようになって。……なんと言えばよいのでしょう。ここにいる間だけは、何も考えなくてよかったような気がするのです」
彼女は窓際の席を見つめた。
「『河のほとりで』という戯曲があります。河を挟んで暮らす二人の話。『私たちみたいですね』と申しましたら、あの方は『……ああ』とだけ」
沈黙が落ちた。
「半年前、縁談が決まりました。『一緒に行きませんか』と申しました。『いつもの時間にいらしてくださったら、それが答えです。いらっしゃらなかったら――』」
言葉が途切れた。
「あの方は、黙って頷きました。……ですから今日、ここにいるのです」
エーリカ嬢は窓際の席に腰を下ろした。
◇
窓から差し込む光の角度が変わり、隣の鍛冶工房から槌を打つ音が聞こえ始めた。
エーリカ嬢が立ち上がった。
「帰ります」
彼女は受付に歩み寄り、一冊の本を差し出した。『オルテンシア戯曲集』の第十七巻。
「……こちらは、お相手の方が借りておられたのでは」
「ええ。でも、あの方はもういらっしゃいませんから」
彼女は本を開き、あるページに栞を挟んだ。何も言わず、静かに。
そして、窓際の椅子に革鞄を置いた。
「お嬢様、お荷物が……」
「いいの。ここに置いていきます」
エーリカ嬢はメイドに向き直った。
「メルテ。……ありがとう」
メイドの表情が、一瞬だけ強張った。
エーリカ嬢は振り返らなかった。
「司書様、三年間ありがとうございました。土曜日の朝が、好きでした」
彼女は図書館を出て、馬車に乗り込んだ。しかし、メイドだけが、まだ扉の前にいた。
「司書様。私が……お願いしたのでございます。あの方に、今日はいらっしゃらないでくださいと」
丸い耳が、わずかに伏せられた。
「お嬢様のためでございます」
メイドは馬車に向かった。車輪が石畳を踏む音が遠ざかっていった。
図書館に静けさが戻った。
◇
窓際に残された革鞄。手に取ってみると、重い。
中身は衣類ではなかった。紙束。何十通もの手紙が、丁寧に束ねられている。
無骨な職人の文字。返却された本に手紙を挟み、次の土曜日に相手が借りる。週に一度だけの、往復書簡。
これは駆け落ちの荷物ではない。彼女は最初から、どこかへ行くつもりなどなかったのだ。
私はカウンターの上の本を手に取った。栞が挟まれたページを開く。「河のほとりで」。その終幕。
夜が明ける。東屋に立つ彼女。刻限は過ぎた。彼は来ない。
「ありがとう
来ないでくれて、ありがとう
あなたは岸を離れなかった
だから私も、私の岸へ」
「河よ、私たちを隔てておくれ
空よ、私たちを繋いでおくれ
あなたは北の空を見上げ、私は南の空を見上げる
それだけで
ただそれだけで」
幕。
私は本を棚に戻した。栞は挟んでおいたまま。




