4月24日『光にかざすと』
金曜日の夕方。
父さんが庁舎で届け出をしている間、僕は図書館で待つことになった。
「終わったら迎えに行く」
父さんはそれだけ言って、書類の束を抱えたまま歩いていった。
引っ越しの届け出。明後日には、この街を出る。
石畳の道。ファーデン工房の前を通り過ぎるとき、染料の匂いがした。母さんが働いていた場所だ。
この道を歩くのは、これが最後かもしれない。
◇
母さんが元気だった頃、よく一緒にこの道を歩いた。
図書館へ行く日。母さんは仕事帰りで、僕の手を引いて歩いてくれた。母さんの手は少しだけ冷たかった。染色の仕事で、水に触れていたから。
「今日は何の本を読む?」
母さんはいつもそう聞いた。僕が何と答えても、「いいね」と笑ってくれた。
「本は関係ないの。ここにいるだけで、何かが変わるのよ」
僕にはあまり意味がわからなかった。でも、母さんが好きな場所だから、僕も好きになった。
◇
図書館の扉を開ける。
いつもの匂い。紙と、古い木と、少しだけ埃。
窓際の席に座る。母さんが好きだった場所。
母さんが働き始めてから、僕は月に何度か、一人で来るようになった。いつの間にか、ここが「僕の場所」になっていた。
母さんは今は来られない。咳が止まらないから。医者の先生は言った。「この街の水では治らない」って。
だから、引っ越すことに決まった。海の近くの、水が綺麗な街に。
◇
窓辺に、見覚えのある姿があった。先週、初めて話した子。
「トビアス」
「おにいちゃん!」
僕はポケットからお守りを取り出した。母さんが織ってくれた小さな布。青と白の糸で、波みたいな模様が入っている。
「これ、母さんが作ったやつ。息災のお守り、だって」
トビアスは受け取って、じっと見つめた。
「きれい。海みたい」
「母さん、海を見たことないのに、こういう模様が好きなんだ」
トビアスは僕を見上げて、首を傾げた。
「風みたいな色してる」
◇
「ミルさん、どうかしましたか?」
話をしていると、司書さんの声がした。
振り向くと、扉の近くに丸い耳の子が立っていた。何か手に持ったまま、もじもじしている。
ミルだ。
診療所の待合室で何度か会った子。姉さんが寝たきりだって聞いた。
ミルは少し顔を赤くして、こっちへ歩いてきた。
「先生から聞いた。引っ越すって」
「うん。海の近く」
ミルは手に持っていたものを差し出した。銀色の、小さな髪飾り。細い線で花の形が作られている。
「これ、お母さんに。おねえちゃんのも作ったから、お揃い」
僕は受け取った。少し不格好な花。でも、一生懸命作ったのがわかる。
花の真ん中には、何かを嵌める窪みがあった。
「本当は石を入れたかったんだけど、買えなくて」
◇
「これを使ってみてはいかがですか」
司書さんが手のひらに小さな貝殻を載せていた。淡い青色。渦を巻いた形。
「ある方から頂いたものなのです。遠くへ行く方に渡してほしい、と」
髪飾りの窪みに合わせてみる。大きさは、ちょうどいい。
でも、なんだか少しぼんやりしている。銀の飾りと、淡い青の貝殻。きれいなのに、何か足りない。
「まって」
トビアスが鞄から小さな筆と絵の具を取り出した。
「色、ぬっていい?」
トビアスは貝殻を手に取って、じっと見つめた。渦の外側に筆を当てようとして、やめた。どこに描けばいいのか、迷っている。
「――渦の内側だ」
低い声がした。
振り向くと、大きな影。口元から牙が覗いている。父さんの工場で見た、夜番頭さんだ。いつの間にか、後ろで見ていたらしい。
「光が当たると見えるようにしとけ。普段は隠れてる方がいい」
トビアスは頷いて、貝殻の渦の内側に筆を入れた。
青。少しだけ金色。海の色と、夕焼けの色。
僕は息を止めて見ていた。ミルも、司書さんも、番頭さんも、誰も何も言わなかった。
「できた」
貝殻を光にかざすと、渦の奥に色が見えた。普通に見ると、ただの淡い青。でも、光を当てると、金色が滲んでいる。
ミルが貝殻を受け取って、髪飾りの窪みに合わせた。器用な指が、細い銀の線を少しだけ曲げて固定する。
「こうすれば、取れない」
銀の花の真ん中に、青い貝殻。光を当てると、渦の奥に夕焼けの色。
◇
「ふん。まあ、悪くねえな」
番頭さんが鼻を鳴らした。
「元気でやれよ、坊主。お前も、父ちゃんも。……母ちゃんもな」
ぶっきらぼうだけど、温かい声だった。
ミルが目を逸らした。
「じゃ。元気で」
「ありがと」
「別に」
ミルは棚の奥へ消えた。
トビアスが小さく笑った。
「おともだち?」
「わかんない。……たぶん」
◇
窓の外を見た。夕焼けが石畳を染めている。この街で暮らすのも、あと少しだ。
入口の方で人の気配がした。トビアスの母さんだ。小さく会釈して、息子の方へ歩いていった。
「またあえる?」
トビアスが言った。
「うん」
会えるかどうか、わからない。でも、嘘じゃない気がした。
◇
「終わったか」
振り向くと、父さんがいた。少し疲れた顔をしていた。
父さんは僕の手の中の髪飾りを見た。それから、窓の向こうで手を振っているトビアスを見た。
「友達か」
「うん」
父さんは少しだけ目を細めた。
「待たせたな。行くぞ」
父さんの背中を追って歩き出す。
手のひらの中に、髪飾りがある。光にかざすと、渦の奥に夕焼けが見える。
新しい街で、母さんがこれを着けて笑ってくれたら。
そう思ったら、少しだけ足が軽くなった。




