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或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
24/26

4月24日『光にかざすと』

挿絵(By みてみん)

 金曜日の夕方。


 父さんが庁舎で届け出をしている間、僕は図書館で待つことになった。


「終わったら迎えに行く」


 父さんはそれだけ言って、書類の束を抱えたまま歩いていった。


 引っ越しの届け出。明後日には、この街を出る。


 石畳の道。ファーデン工房の前を通り過ぎるとき、染料の匂いがした。母さんが働いていた場所だ。


 この道を歩くのは、これが最後かもしれない。


           ◇


 母さんが元気だった頃、よく一緒にこの道を歩いた。


 図書館へ行く日。母さんは仕事帰りで、僕の手を引いて歩いてくれた。母さんの手は少しだけ冷たかった。染色の仕事で、水に触れていたから。


「今日は何の本を読む?」


 母さんはいつもそう聞いた。僕が何と答えても、「いいね」と笑ってくれた。


「本は関係ないの。ここにいるだけで、何かが変わるのよ」


 僕にはあまり意味がわからなかった。でも、母さんが好きな場所だから、僕も好きになった。


           ◇


 図書館の扉を開ける。


 いつもの匂い。紙と、古い木と、少しだけ埃。


 窓際の席に座る。母さんが好きだった場所。


 母さんが働き始めてから、僕は月に何度か、一人で来るようになった。いつの間にか、ここが「僕の場所」になっていた。


 母さんは今は来られない。咳が止まらないから。医者の先生は言った。「この街の水では治らない」って。


 だから、引っ越すことに決まった。海の近くの、水が綺麗な街に。


           ◇


 窓辺に、見覚えのある姿があった。先週、初めて話した子。


「トビアス」


「おにいちゃん!」


 僕はポケットからお守りを取り出した。母さんが織ってくれた小さな布。青と白の糸で、波みたいな模様が入っている。


「これ、母さんが作ったやつ。息災のお守り、だって」


 トビアスは受け取って、じっと見つめた。


「きれい。海みたい」


「母さん、海を見たことないのに、こういう模様が好きなんだ」


 トビアスは僕を見上げて、首を傾げた。


「風みたいな色してる」


           ◇


「ミルさん、どうかしましたか?」


 話をしていると、司書さんの声がした。


 振り向くと、扉の近くに丸い耳の子が立っていた。何か手に持ったまま、もじもじしている。


 ミルだ。


 診療所の待合室で何度か会った子。姉さんが寝たきりだって聞いた。


 ミルは少し顔を赤くして、こっちへ歩いてきた。


「先生から聞いた。引っ越すって」


「うん。海の近く」


 ミルは手に持っていたものを差し出した。銀色の、小さな髪飾り。細い線で花の形が作られている。


「これ、お母さんに。おねえちゃんのも作ったから、お揃い」


 僕は受け取った。少し不格好な花。でも、一生懸命作ったのがわかる。


 花の真ん中には、何かを嵌める窪みがあった。


「本当は石を入れたかったんだけど、買えなくて」


           ◇


「これを使ってみてはいかがですか」


 司書さんが手のひらに小さな貝殻を載せていた。淡い青色。渦を巻いた形。


「ある方から頂いたものなのです。遠くへ行く方に渡してほしい、と」


 髪飾りの窪みに合わせてみる。大きさは、ちょうどいい。


 でも、なんだか少しぼんやりしている。銀の飾りと、淡い青の貝殻。きれいなのに、何か足りない。


「まって」


 トビアスが鞄から小さな筆と絵の具を取り出した。


「色、ぬっていい?」


 トビアスは貝殻を手に取って、じっと見つめた。渦の外側に筆を当てようとして、やめた。どこに描けばいいのか、迷っている。


「――渦の内側だ」


 低い声がした。


 振り向くと、大きな影。口元から牙が覗いている。父さんの工場で見た、夜番頭さんだ。いつの間にか、後ろで見ていたらしい。


「光が当たると見えるようにしとけ。普段は隠れてる方がいい」


 トビアスは頷いて、貝殻の渦の内側に筆を入れた。


 青。少しだけ金色。海の色と、夕焼けの色。


 僕は息を止めて見ていた。ミルも、司書さんも、番頭さんも、誰も何も言わなかった。


「できた」


 貝殻を光にかざすと、渦の奥に色が見えた。普通に見ると、ただの淡い青。でも、光を当てると、金色が滲んでいる。


 ミルが貝殻を受け取って、髪飾りの窪みに合わせた。器用な指が、細い銀の線を少しだけ曲げて固定する。


「こうすれば、取れない」


 銀の花の真ん中に、青い貝殻。光を当てると、渦の奥に夕焼けの色。


           ◇


「ふん。まあ、悪くねえな」


 番頭さんが鼻を鳴らした。


「元気でやれよ、坊主。お前も、父ちゃんも。……母ちゃんもな」


 ぶっきらぼうだけど、温かい声だった。


 ミルが目を逸らした。


「じゃ。元気で」


「ありがと」


「別に」


 ミルは棚の奥へ消えた。


 トビアスが小さく笑った。


「おともだち?」


「わかんない。……たぶん」


           ◇


 窓の外を見た。夕焼けが石畳を染めている。この街で暮らすのも、あと少しだ。


 入口の方で人の気配がした。トビアスの母さんだ。小さく会釈して、息子の方へ歩いていった。


「またあえる?」


 トビアスが言った。


「うん」


 会えるかどうか、わからない。でも、嘘じゃない気がした。


           ◇


「終わったか」


 振り向くと、父さんがいた。少し疲れた顔をしていた。


 父さんは僕の手の中の髪飾りを見た。それから、窓の向こうで手を振っているトビアスを見た。


「友達か」


「うん」


 父さんは少しだけ目を細めた。


「待たせたな。行くぞ」


 父さんの背中を追って歩き出す。


 手のひらの中に、髪飾りがある。光にかざすと、渦の奥に夕焼けが見える。


 新しい街で、母さんがこれを着けて笑ってくれたら。


 そう思ったら、少しだけ足が軽くなった。

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