4月23日『百年越しの返却』
窓の外から、いつもの工房の音が聞こえている。
午後の陽が傾き始めた頃。来館者の少ない、静かな時間帯だった。
一人の老婦人が扉を開けた。
八十代後半だろうか。背筋が伸びて、佇まいに品がある。
古い本を、大切そうに抱えていた。
「遺品を整理しておりましたら、この本が出てまいりまして」
「夫は二ヶ月前に亡くなりました。薬草師でした。図書館にお役に立てればと思いまして」
本を受け取る。見た目より、ずっと重い。紙が吸い込んだ百年分の手脂と薬草の匂いが、指先に伝わる気がした。
『薬草大全――調合と処方の手引き』
革装丁は擦り切れ、背は割れかけている。ページは手垢で黒ずみ、ところどころ補修の跡がある。
「息子も同じ仕事をしておりますが、この本のことは知らなかったようで」
寄贈の手続きのため、表紙の裏を確認する。
薄れた印――見覚えがある。当館の蔵書印だ。
貸出台帳の古い巻を引き出す。
星暦九一九年に貸し出し。返却記録なし。
借りた人物の名は、ご主人ではない。百年以上前の、知らない名前。
「おそらく、薬草師から薬草師へ、受け継がれてきたのでしょう」
◇
本を開く。
余白に、書き込みがびっしりと残されている。
古い言葉遣い、少し新しい言葉遣い、現代に近い言葉遣い。
少なくとも四人の手を渡ってきた本だ。
「読んでみても、よろしいでしょうか」
「ええ、もちろん」
私と老婦人は、並んで本をめくり始めた。午後の光が、開いたページをちょうど照らしている。
◇
――安眠の調合。
『月見草と乾燥蜂蜜。眠れぬ夜に』
古い字で、
『患者の娘より礼を言われる。母が安らかに眠れたと』
少し新しい字で、
『感謝されるたび思う。救えなかった者のことを。それでも続ける』
新しい字で、
『よく眠れたと聞いた。明日も届けよう。それが私の仕事だ』
老婦人の手が止まった。
最後の一行を、そっと指でなぞる。
「『私の仕事だ』。夫は、よくこう言っておりました」
――強心の秘薬。
『狐手袋の葉。弱った心臓を力強く打たせる。神の恵みなり』
欄外に別の字で、『父が息を吹き返した。神に感謝いたします』
『有効量と致死量が近すぎる。蓄積して突然心臓を止める。我はもう使わぬ』
『狐手袋は禁忌となった。感謝の言葉が残るこの頁を、私は開くことができない』
老婦人が静かに息をついた。
――傷薬の処方。
『このごろ傷の患者少なし。平和な世なり』
『鉱山の落盤。先月十八 今月十四。三名助からず』
『剣傷増す。消費、前年の三倍』
このページには、新しい字がなかった。
老婦人は言った。
「今は、滅菌した軟膏がどこの雑貨屋にも並んでおります」
百年の歴史が、この本に刻まれている。そして、途切れた歴史も。
◇
巻末に白紙のページがあった。他のページより紙が柔らかい。何度も開かれた場所らしい。
びっしりと、走り書きが並んでいる。
――
腰痛の処方 今年も同じ
鍛冶屋の息子、生まれる 当帰湯
高熱 白柳煎 三日で笑顔が戻る
弟 この子は気管弱し 冬のたび咳止め 届ける
兄 家督を継ぐ 父と同じ腰痛 職業病か
ヨシュア 父と同じ処方 よく効く
鍛冶屋 老いてなお咳止めを取りに来る
ダルク 三代続けて同じ薬
鍛冶の音がまた一つ街から減った
エルダ 冬の咳 同じ薬でよく眠れたと
エルダ 子を宿す 春には会えるだろうか
――
「……ある家族の記録のようですね。百年にわたって」
老婦人がそっとページに触れた。
「エルダというのは、近所の娘です」
「ご主人が、書かれたのですね」
「ええ。今年の春まで、往診に行っておりました」
老婦人は静かに本を閉じた。
「夫は……最期まで、一人前ではないと言っておりました」
「でも、この記録を見ると……」
言葉が続かなかった。
◇
私は本を受け取り、しばらく黙っていた。
「……この本は、お返しいたします」
老婦人が顔を上げた。
「百年前に貸し出された本です。延滞も、罰則もございません……ですが、この本にはまだ続きがあります」
私は巻末のページを開いた。
「エルダさんのお子さんは、もう生まれましたか」
「……ええ。春に、元気な男の子が」
「いつか熱を出すかもしれません。冬になれば、咳をするかもしれません」
「その時、この記録の続きを書く人がきっと必要です」
老婦人は何も言わない。
「息子さんに、お渡しください」
◇
夕暮れ。
窓の外では、槌の音が止んでいた。代わりに、工場の汽笛が遠くで鳴っている。
百年越しの返却は、もう少し先になった。
あるいは、永遠に。




