表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
23/25

4月23日『百年越しの返却』

挿絵(By みてみん)

 窓の外から、いつもの工房の音が聞こえている。


 午後の陽が傾き始めた頃。来館者の少ない、静かな時間帯だった。


 一人の老婦人が扉を開けた。


 八十代後半だろうか。背筋が伸びて、佇まいに品がある。


 古い本を、大切そうに抱えていた。


「遺品を整理しておりましたら、この本が出てまいりまして」


「夫は二ヶ月前に亡くなりました。薬草師でした。図書館にお役に立てればと思いまして」


 本を受け取る。見た目より、ずっと重い。紙が吸い込んだ百年分の手脂と薬草の匂いが、指先に伝わる気がした。


 『薬草大全――調合と処方の手引き』


 革装丁は擦り切れ、背は割れかけている。ページは手垢で黒ずみ、ところどころ補修の跡がある。


「息子も同じ仕事をしておりますが、この本のことは知らなかったようで」


 寄贈の手続きのため、表紙の裏を確認する。


 薄れた印――見覚えがある。当館の蔵書印だ。


 貸出台帳の古い巻を引き出す。


 星暦九一九年に貸し出し。返却記録なし。


 借りた人物の名は、ご主人ではない。百年以上前の、知らない名前。


「おそらく、薬草師から薬草師へ、受け継がれてきたのでしょう」


           ◇


 本を開く。


 余白に、書き込みがびっしりと残されている。


 古い言葉遣い、少し新しい言葉遣い、現代に近い言葉遣い。


 少なくとも四人の手を渡ってきた本だ。


「読んでみても、よろしいでしょうか」


「ええ、もちろん」


 私と老婦人は、並んで本をめくり始めた。午後の光が、開いたページをちょうど照らしている。


           ◇


 ――安眠の調合。


『月見草と乾燥蜂蜜。眠れぬ夜に』


 古い字で、

『患者の娘より礼を言われる。母が安らかに眠れたと』


 少し新しい字で、

『感謝されるたび思う。救えなかった者のことを。それでも続ける』


 新しい字で、

『よく眠れたと聞いた。明日も届けよう。それが私の仕事だ』


 老婦人の手が止まった。


 最後の一行を、そっと指でなぞる。


「『私の仕事だ』。夫は、よくこう言っておりました」



 ――強心の秘薬。


『狐手袋の葉。弱った心臓を力強く打たせる。神の恵みなり』


 欄外に別の字で、『父が息を吹き返した。神に感謝いたします』


『有効量と致死量が近すぎる。蓄積して突然心臓を止める。我はもう使わぬ』


『狐手袋は禁忌となった。感謝の言葉が残るこの頁を、私は開くことができない』


 老婦人が静かに息をついた。



 ――傷薬の処方。


『このごろ傷の患者少なし。平和な世なり』


『鉱山の落盤。先月十八 今月十四。三名助からず』


『剣傷増す。消費、前年の三倍』


 このページには、新しい字がなかった。


 老婦人は言った。


「今は、滅菌した軟膏がどこの雑貨屋にも並んでおります」



 百年の歴史が、この本に刻まれている。そして、途切れた歴史も。


           ◇


 巻末に白紙のページがあった。他のページより紙が柔らかい。何度も開かれた場所らしい。


 びっしりと、走り書きが並んでいる。


 ――


 腰痛の処方 今年も同じ


 鍛冶屋の息子、生まれる 当帰湯


 高熱 白柳煎 三日で笑顔が戻る


 弟 この子は気管弱し 冬のたび咳止め 届ける


 兄 家督を継ぐ 父と同じ腰痛 職業病か


 ヨシュア 父と同じ処方 よく効く


 鍛冶屋 老いてなお咳止めを取りに来る 


 ダルク 三代続けて同じ薬


 鍛冶の音がまた一つ街から減った


 エルダ 冬の咳 同じ薬でよく眠れたと


 エルダ 子を宿す 春には会えるだろうか


 ――


「……ある家族の記録のようですね。百年にわたって」


 老婦人がそっとページに触れた。


「エルダというのは、近所の娘です」


「ご主人が、書かれたのですね」


「ええ。今年の春まで、往診に行っておりました」


 老婦人は静かに本を閉じた。


「夫は……最期まで、一人前ではないと言っておりました」


「でも、この記録を見ると……」


 言葉が続かなかった。


           ◇


 私は本を受け取り、しばらく黙っていた。


「……この本は、お返しいたします」


 老婦人が顔を上げた。


「百年前に貸し出された本です。延滞も、罰則もございません……ですが、この本にはまだ続きがあります」


 私は巻末のページを開いた。


「エルダさんのお子さんは、もう生まれましたか」


「……ええ。春に、元気な男の子が」


「いつか熱を出すかもしれません。冬になれば、咳をするかもしれません」


「その時、この記録の続きを書く人がきっと必要です」


 老婦人は何も言わない。


「息子さんに、お渡しください」


           ◇


 夕暮れ。


 窓の外では、槌の音が止んでいた。代わりに、工場の汽笛が遠くで鳴っている。


 百年越しの返却は、もう少し先になった。


 あるいは、永遠に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ