4月21日『芽吹きの種』
午後。雲の薄い日で、窓からの光が書架の足元まで届いていた。
図書館の扉が開いて、若い女性が入ってきた。私はすぐに気づいた。
――あの子のお母さんだ。
いつも車いすを押していた。毛布にくるまれた小さな女の子に、絵本を読んであげていた、あの人。
でも今日は一人だ。
黒い服の首元に、喪章が見える。
女性はカウンターには来なかった。ゆっくりと児童コーナーへ向かい、絵本の棚の前で足を止めた。
低い棚。車いすの高さに合わせて、絵本を並べ替えた棚だ。
私は書架の整理を装いながら、そっと近づいた。
◇
「お久しぶりです」
私が静かに声をかけると、女性が振り向いた。
目の下に深い隈がある。
「ああ、司書さん」
かすれた声。
「娘が……お世話になりました」
過去形。私は言葉にしない。
「こちらこそ。いつも絵本を楽しみにしてくださって」
私は棚から『おほしさまのぼうけん』を取り出した。背表紙の角が丸くなっている。何度も小さな手で取り出された本。開くと、あるページだけ少し波打っていた。
「この本、覚えていらっしゃいますか」
「……娘が、好きだった本」
◇
女性が話し始めた。
「寝たきりで……それでも娘は、図書館にまた行きたいって。何度も言っていました。今年の降誕祭も、どうしても行きたいと。『種拾い』に参加したいって」
降誕祭の『種拾い』。教会の庭に隠された『芽吹きの種』を、子供たちが探し出す儀式だ。見つけた種を土に植えて、いつか能力が芽吹くことを祈願する。
「車いすで教会に連れて行きました。でも、他の子供たちが走り回る中、娘は見ているだけ……」
女性は懐から小さな卵型の植木鉢を取り出した。土が入っている。
「それを見ていた司祭様が、儀式の後、わざわざ娘のところに来てくださって。『この種は特別な種だよ。神様が、君のためにお取り置きしてくださっていたんだ』と、娘の手のひらに種を置いてくださって」
女性の声が震える。
「……すごく嬉しそうで。『わたしの種、見つけた!』って」
◇
「帰り道に、娘が言ったんです。『図書館にも行きたい。おほしさまの本、借りたい』って」
女性は絵本を見つめた。
「『来週ね』と約束しました。指切りを……しました」
長い沈黙。
「その夜、容態が悪くなって。それが……最期の、約束になりました」
◇
私は棚から『はなのなまえ』を取り出した。花の名前と由来を描いた絵本だ。
「この本、覚えていらっしゃいますか。娘さんがまだお元気だった頃に、よくせがまれましたね」
女性の目に、懐かしさの光が宿った。
「……娘が二歳の頃から好きで。タンポポのところで、いつも止まって」
女性が小さく笑った。泣き笑いに近い。
「娘が庭の花に全部名前をつけ始めたんです。タンポポは『ぽぽちゃん』。スミレは『すみちゃん』。名前をつけると、お友達になれるんだって」
女性の声が、少しずつ温かくなっていく。
児童コーナーの空気が、ほんの少しだけ変わった気がした。陽だまりの中に、甘い花の匂い——いや、気のせいだろうか。
「毎朝、庭に出て『おはよう』って声をかけて。水をあげるのは娘の仕事。小さな手で、そっと。『お花さん、おみずだよ』って」
女性が、柔らかい表情で植木鉢を撫でた。
「だから……植木鉢に植えたんです。娘がそうしていたように、毎日話しかけて」
私は静かに言った。
「この種も、きっと聞いていると思います。毎日の『おはよう』を」
女性の目から、涙がこぼれた。
さっきとは違う涙だった。
◇
私は預かった植木鉢を窓際に置いた。陽当たりのいい場所。あの子が絵本を読んでいた場所。
――娘がいたかった場所。芽が出ても、出なくても。
土の表面に、ふと小さな緑を見つけた。透き通るような、淡い色の芽。
さっきまで、何もなかったはずなのに。
あの人が温かい思い出を語っていた時だろうか。娘さんの声を、懐かしそうに真似ていたあの時。あの手の中で、何かを受け取ったのかもしれない。
小さな芽に、春の陽射しが当たっている。
「……お母さんに、教えてあげなくちゃ。ね」
火曜日の午後。
図書館の片隅で、小さな命が静かに芽吹いた。




