4月20日『いつかのための場所』
朝。
窓を開けると、新緑の匂いがした。
◇
最初の来館者は、小柄だが筋肉質の若い男性だった。丸みを帯びた耳、素早く動く黒い瞳。どこかで見た面影がある。
あの時計技師、ハインツさんの息子――フリッツさんだ。本を持つ手の指先に、油染みがあった。工具を握る手だ。
「あの……メルセル・グルントって人の本、ありますか」
ぶっきらぼうな口調。でも目は真剣だった。
「技術書の棚に、何冊かございます。こちらへ」
私は彼を書庫へ案内した。『精密時計の設計原理』『歯車機構論』『時計技術の精髄』。古い背表紙が並んでいる。
「……どうも」
彼は本を抱えて、閲覧席へ向かった。父の師匠について、自分で調べようとしている。
◇
十時頃、カウンターに淡い青灰色の翼が近づいてきた。翼が動くたびに、カウンターの上の紙がふわりと浮く。二週間ほど前、祖父と母と一緒に来た少女だ。
「返却でーす」
三冊の本。『風の都の四季』『十二都市風景画集』『若き旅人の手記』。
「楽しめましたか」
「すっごく! 特にこれ」
少女――リーゼルは風景画集を指さした。
「風の都の風車が載っててね、おじいちゃんが話してくれた通りだったの。いつか行ってみたいな」
「……素敵な夢ですね」
「夢、だよね。まだ」
少女は少し寂しそうに笑った。
「でもね、本を読んでると、もうちょっと待てる気がするの」
私は新しい本を差し出した。『風読みの技法』。
「これは、風の都の職人が書いたものです。いつか行く時のために」
少女は本を抱きしめた。
◇
十時半、若い女性が入ってきた。
カウンター脇の新聞架に目を留める。商工新報の最新号。彼女は新聞を手に取り、紙面を開いた。ある記事で、手が止まった。
一瞬、表情が揺れた。窓からの光が紙面を照らしていた。活字の列が、彼女の顔に小さな影を落とす。うれしいのか、気まずいのか。どちらとも取れない顔だった。
彼女は新聞を静かに戻し、何事もなかったように技術書の棚へ向かう。
「何かお探しですか」
「合金の専門書を。新しい技術を学びたくて」
手には煤の痕がうっすら残っている。きりっとした目つき。迷いのない声。
「商会の工場で働いているんです。ギルドとは違って、腕さえあれば上に行ける。だから勉強しないと」
『ギルドとは違う』。
その言葉に、何かが滲んでいた。
新聞のことには触れない。私も聞かない。記事に何が書かれていようと、彼女は自分の道を進んでいる。
「また来ます」
「ええ。お待ちしております」
◇
十一時、扉が勢いよく開いた。
「失礼しまーす!」
大柄な若者が四人、どやどやと入ってきた。棚の本が背表紙の列ごとかすかに震え、床板が軋んだ。牙が覗く口元。煤で汚れた作業着。鋳造工場の見習い工たちだろう。
「おい、静かにしろって」
「これが静かだろ」
「全然静かじゃねえ」
先頭の若者――ルッツと名乗った――が声を落とす。でも、後ろの三人が収まらない。
「おい見ろよ、本がいっぱいある」
「分厚い! こんなの読めるのか?」
「これ何? 触っていい?」
私は咳払いをした。
「皆様。図書館では、お静かに」
四人が同時に口をつぐんだ。大きな体が、縮こまる。
「……すみません。俺たち、慣れてなくて」
夜番頭さんの顔が浮かんだ。
「どのような本をお探しですか」
後ろの三人が、ルッツの背中を押す。
「言えよ」
「お前が言うって決めただろ」
ルッツは腹を決めたように、私を見た。
「……文字の、勉強の本」
小さな声だった。
「俺たち、文字が読めないんです。親方が毎週本を借りてきて、読んでくれるんですけど。自分でも読めるようになりたくて」
私は四人を識字教本の棚へ案内した。四人が棚を覗き込む。大きな手で、恐る恐る本を取る。
「……俺、自分の名前から覚えてえ」
ルッツがぽつりと言った。
「親方への手紙、自分で書きてえんだ」
四人の目が、真剣だった。騒がしくても、学びたい気持ちは本物だ。
「利用証をお作りしましょうか。四名分」
「いいんですか」
「ええ。学びたいと思った時が、始まりですから」
四人が顔を見合わせ、揃って頭を下げる。
「「「「ありがとうございます!」」」」
声が大きい。閲覧席の利用者が、また振り返った。
「……お静かに」
「「「「すみません」」」」
◇
昼近く、フリッツさんがカウンターに来た。三時間近く、閲覧席で過ごしていた。手には古い本と、一枚の紙。
「あの……これ、本の間に挟まってて」
彼が差し出したのは、折り畳まれた設計図だった。見覚えがある。ハインツさんが、預けていったものだ。
「署名がある。『メルセル・グルント』。それと……『弟子 ハインツ・ヴェルナー 修正』って」
父の筆跡。三十年前の。
「……親父の名だ」
彼は設計図を見つめていた。
「師匠の設計を、修正したってことですよね。弟子なのに。親父は」
彼の目が、少し潤んでいるように見えた。
「古い職人だと思ってた。でも、違った。親父だって昔は、若い弟子だった」
彼は設計図を丁寧に折り畳んだ。
「これ、持ってっていいですか。親父に、見せたいんです」
私は少し考えた。ハインツさんは「預かっていてくれ」と言った。でも、息子さんが見つけたのなら――。
「どうそ、お持ちください。お父様にお返しするのが、よいかと思います」
彼は設計図を懐にしまい、少し照れくさそうに頭を下げた。
「また来ます」
「ええ。お待ちしております」
◇
昼休み。カウンターで一息つく。
窓の外、新緑が揺れている。
父の足跡を辿る息子。遠い空を見つめる少女。自分の道を進む女性。最初の一歩を踏み出した若者たち。
みんな、それぞれの「いつか」を抱えて、今日ここに来た。
月曜日。また始まる一週間。




