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或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
20/23

4月20日『いつかのための場所』

挿絵(By みてみん)

 朝。


 窓を開けると、新緑の匂いがした。


           ◇


 最初の来館者は、小柄だが筋肉質の若い男性だった。丸みを帯びた耳、素早く動く黒い瞳。どこかで見た面影がある。


 あの時計技師、ハインツさんの息子――フリッツさんだ。本を持つ手の指先に、油染みがあった。工具を握る手だ。


「あの……メルセル・グルントって人の本、ありますか」


 ぶっきらぼうな口調。でも目は真剣だった。


「技術書の棚に、何冊かございます。こちらへ」


 私は彼を書庫へ案内した。『精密時計の設計原理』『歯車機構論』『時計技術の精髄』。古い背表紙が並んでいる。


「……どうも」


 彼は本を抱えて、閲覧席へ向かった。父の師匠について、自分で調べようとしている。


           ◇


 十時頃、カウンターに淡い青灰色の翼が近づいてきた。翼が動くたびに、カウンターの上の紙がふわりと浮く。二週間ほど前、祖父と母と一緒に来た少女だ。


「返却でーす」


 三冊の本。『風の都の四季』『十二都市風景画集』『若き旅人の手記』。


「楽しめましたか」


「すっごく! 特にこれ」


 少女――リーゼルは風景画集を指さした。


「風の都の風車が載っててね、おじいちゃんが話してくれた通りだったの。いつか行ってみたいな」


「……素敵な夢ですね」


「夢、だよね。まだ」


 少女は少し寂しそうに笑った。


「でもね、本を読んでると、もうちょっと待てる気がするの」


 私は新しい本を差し出した。『風読みの技法』。


「これは、風の都の職人が書いたものです。いつか行く時のために」


 少女は本を抱きしめた。


           ◇


 十時半、若い女性が入ってきた。


 カウンター脇の新聞架に目を留める。商工新報の最新号。彼女は新聞を手に取り、紙面を開いた。ある記事で、手が止まった。


 一瞬、表情が揺れた。窓からの光が紙面を照らしていた。活字の列が、彼女の顔に小さな影を落とす。うれしいのか、気まずいのか。どちらとも取れない顔だった。


 彼女は新聞を静かに戻し、何事もなかったように技術書の棚へ向かう。


「何かお探しですか」


「合金の専門書を。新しい技術を学びたくて」


 手には煤の痕がうっすら残っている。きりっとした目つき。迷いのない声。


「商会の工場で働いているんです。ギルドとは違って、腕さえあれば上に行ける。だから勉強しないと」


 『ギルドとは違う』。


 その言葉に、何かが滲んでいた。


 新聞のことには触れない。私も聞かない。記事に何が書かれていようと、彼女は自分の道を進んでいる。


「また来ます」


「ええ。お待ちしております」


           ◇


 十一時、扉が勢いよく開いた。


「失礼しまーす!」


 大柄な若者が四人、どやどやと入ってきた。棚の本が背表紙の列ごとかすかに震え、床板が軋んだ。牙が覗く口元。煤で汚れた作業着。鋳造工場の見習い工たちだろう。


「おい、静かにしろって」


「これが静かだろ」


「全然静かじゃねえ」


 先頭の若者――ルッツと名乗った――が声を落とす。でも、後ろの三人が収まらない。


「おい見ろよ、本がいっぱいある」


「分厚い! こんなの読めるのか?」


「これ何? 触っていい?」


 私は咳払いをした。


「皆様。図書館では、お静かに」


 四人が同時に口をつぐんだ。大きな体が、縮こまる。


「……すみません。俺たち、慣れてなくて」


 夜番頭さんの顔が浮かんだ。


「どのような本をお探しですか」


 後ろの三人が、ルッツの背中を押す。


「言えよ」


「お前が言うって決めただろ」


 ルッツは腹を決めたように、私を見た。


「……文字の、勉強の本」


 小さな声だった。


「俺たち、文字が読めないんです。親方が毎週本を借りてきて、読んでくれるんですけど。自分でも読めるようになりたくて」


 私は四人を識字教本の棚へ案内した。四人が棚を覗き込む。大きな手で、恐る恐る本を取る。


「……俺、自分の名前から覚えてえ」


 ルッツがぽつりと言った。


「親方への手紙、自分で書きてえんだ」


 四人の目が、真剣だった。騒がしくても、学びたい気持ちは本物だ。


「利用証をお作りしましょうか。四名分」


「いいんですか」


「ええ。学びたいと思った時が、始まりですから」


 四人が顔を見合わせ、揃って頭を下げる。


「「「「ありがとうございます!」」」」


 声が大きい。閲覧席の利用者が、また振り返った。


「……お静かに」


「「「「すみません」」」」


           ◇


 昼近く、フリッツさんがカウンターに来た。三時間近く、閲覧席で過ごしていた。手には古い本と、一枚の紙。


「あの……これ、本の間に挟まってて」


 彼が差し出したのは、折り畳まれた設計図だった。見覚えがある。ハインツさんが、預けていったものだ。


「署名がある。『メルセル・グルント』。それと……『弟子 ハインツ・ヴェルナー 修正』って」


 父の筆跡。三十年前の。


「……親父の名だ」


 彼は設計図を見つめていた。


「師匠の設計を、修正したってことですよね。弟子なのに。親父は」


 彼の目が、少し潤んでいるように見えた。


「古い職人だと思ってた。でも、違った。親父だって昔は、若い弟子だった」


 彼は設計図を丁寧に折り畳んだ。


「これ、持ってっていいですか。親父に、見せたいんです」


 私は少し考えた。ハインツさんは「預かっていてくれ」と言った。でも、息子さんが見つけたのなら――。


「どうそ、お持ちください。お父様にお返しするのが、よいかと思います」


 彼は設計図を懐にしまい、少し照れくさそうに頭を下げた。


「また来ます」


「ええ。お待ちしております」


           ◇


 昼休み。カウンターで一息つく。


 窓の外、新緑が揺れている。


 父の足跡を辿る息子。遠い空を見つめる少女。自分の道を進む女性。最初の一歩を踏み出した若者たち。


 みんな、それぞれの「いつか」を抱えて、今日ここに来た。


 月曜日。また始まる一週間。

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