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或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
19/24

4月19日『舞台の袖から』

挿絵(By みてみん)

 郷土資料室。閲覧席に、二人だけ。


 乾いた空気の中で、その人物の周囲だけがかすかに湿っている。古い紙の匂いに、潮の気配が混じった。


 青白い肌。首筋に、鰓のような器官。深緑の髪が、海藻のように揺れている。


「今日は静かですな。……日曜日だから、かな?」


「ええ、日曜日ですから」


「日曜日。休息の日。ふふ。しかし、あなたはここにいる」


「……仕事ですから」


「ああ、司書。本の番人。なぜ、そのような道を選んだのです?」


 私は、手元の目録に視線を落とす。


「本が好きだったから、というのが一番の答えでしょうか」


「それだけ? 随分と単純な答えですな」


「それだけ、ではないかもしれません。本を通して、人と繋がりたかったのです」


「繋がりたかった。過去形ですな。では、今は?」


「今もそう思っています。ただ、時々……」


「時々?」


「意味を見失うことがあります。本を並べながら、誰のために、何のために、と」


「倦怠! 厭世! 虚無!」


 大仰に両腕が広げられる。青白くぬめる腕の内側で、吸盤のような器官が蠢いた。


「ああ、素晴らしい。ようやく面白くなってきた。……倦怠とは、渇きなのですよ。砂漠を歩く者だけが、水を想う」


「あなたの同胞が、こんなにお話しになるのは珍しいですね」


「……」


「寡黙を美徳とする方々だと、聞いております」


「……ふふ。私は少々、変わっているのです。同胞たちには疎まれています。……お察しの通り」


「失礼しました」


「いいえ。なかなかに鋭い観察というもの。……さすが、司書というべきか。いや、その観察眼は書架の森で培われたものではありますまい」


「観察はどこでも学べます」


「ふふ。はぐらかしましたな」


「……では、あなたは、倦怠を感じたことがありますか」


「私たちには、倦怠などという贅沢な感情はない。いや、ありえない。……羨ましい、と言っておきましょう」


「『私たち』……そうおっしゃいますが、あなたは本当に、その中に含まれているのですか」


 長い沈黙。


「倦怠は、何かを純粋に信じていた証。私には、それがない。……深淵から来た者は、深淵にしか帰れない。けれど私は……深淵からも追われた」


「……」


「本を守ること、知識を伝えること。それが正しいと、今も信じていますかな?」


「今も、そう信じています」


「純粋! 無垢! 愚直!」


「ああ、なんと美しい響き。しかし純粋であるということは、つまり愚かであるということだ。澄んだ水は、底まで見える。見えるがゆえに、深さを見誤る」


「随分と、饒舌な批判ですね」


「……」


「いえ。静謐を尊ぶ方が、これほど言葉を費やすのは……少々、皮肉だと思いまして」


「……ふふ。ふふふ。あなたは、思ったより鋭い」


「司書ですから」


「脇役のほうが、よく見えているというわけか。……あなたは、自分の人生の主役ですかな?」


「……」


 窓から差し込む光の角度が変わっていた。


「物語には必ず主役がいるもの。しかしあなたは観察者であり、記録者。……主役の器ではない」


「そうかもしれません」


「自虐的ですなあ。しかし的を射ている。……舞台の中央で踊る者には、舞台の形が見えない。袖に立つ者だけが、全体を知る」


「……あなたも、ですか」


「私?」


「主役にはなれない。かといって、脇役に甘んじることもできない。……だから、巡っているのではありませんか」


「……ふふ。本当に、鋭い。その洞察は、人を見てきた者のもの」


「いろいろな方が、ここには来られますから」


「ここは不思議な場所、居酒屋のようなもの。見知らぬ者同士が問いを求めて言葉を交わす。……言葉は橋。渡らなくとも、架けるだけで救われることがある」


「あなたは問いより、ご自分の言葉のほうが多いように思えます」


「……変わり者だと。厄介者だと。同胞たちは、そう思っているでしょうな」


「寂しいですね」


「……あなたは、寂しくはないのかな。この静けさを選んだのは、静けさが好きだから。それだけではないでしょう」


 私は、少しだけ考える。


「戻れなくなったのかもしれません」


「戻れなくなった」


「ええ。……戻りたくない、のではなく」


           ◇


「……もうすぐ、閉館ですな」


「ええ」


「答えは出ませんでしたな」


「……あなたの同胞は、海に還るものだと聞きました。あなたには、還る場所があるのですか」


「ないからこそ、彷徨っているのかもしれませんな」


 その者が、立ち上がる。


「波は寄せては返す。けれど私は、寄せることしかできない。……あなたも、そうなのでしょう?」


「……そうかもしれませんね」


 書架の影に、青白い姿が消えていく。


「では、また」


 答えは出なかった。でも、それでいい。

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