4月19日『舞台の袖から』
郷土資料室。閲覧席に、二人だけ。
乾いた空気の中で、その人物の周囲だけがかすかに湿っている。古い紙の匂いに、潮の気配が混じった。
青白い肌。首筋に、鰓のような器官。深緑の髪が、海藻のように揺れている。
「今日は静かですな。……日曜日だから、かな?」
「ええ、日曜日ですから」
「日曜日。休息の日。ふふ。しかし、あなたはここにいる」
「……仕事ですから」
「ああ、司書。本の番人。なぜ、そのような道を選んだのです?」
私は、手元の目録に視線を落とす。
「本が好きだったから、というのが一番の答えでしょうか」
「それだけ? 随分と単純な答えですな」
「それだけ、ではないかもしれません。本を通して、人と繋がりたかったのです」
「繋がりたかった。過去形ですな。では、今は?」
「今もそう思っています。ただ、時々……」
「時々?」
「意味を見失うことがあります。本を並べながら、誰のために、何のために、と」
「倦怠! 厭世! 虚無!」
大仰に両腕が広げられる。青白くぬめる腕の内側で、吸盤のような器官が蠢いた。
「ああ、素晴らしい。ようやく面白くなってきた。……倦怠とは、渇きなのですよ。砂漠を歩く者だけが、水を想う」
「あなたの同胞が、こんなにお話しになるのは珍しいですね」
「……」
「寡黙を美徳とする方々だと、聞いております」
「……ふふ。私は少々、変わっているのです。同胞たちには疎まれています。……お察しの通り」
「失礼しました」
「いいえ。なかなかに鋭い観察というもの。……さすが、司書というべきか。いや、その観察眼は書架の森で培われたものではありますまい」
「観察はどこでも学べます」
「ふふ。はぐらかしましたな」
「……では、あなたは、倦怠を感じたことがありますか」
「私たちには、倦怠などという贅沢な感情はない。いや、ありえない。……羨ましい、と言っておきましょう」
「『私たち』……そうおっしゃいますが、あなたは本当に、その中に含まれているのですか」
長い沈黙。
「倦怠は、何かを純粋に信じていた証。私には、それがない。……深淵から来た者は、深淵にしか帰れない。けれど私は……深淵からも追われた」
「……」
「本を守ること、知識を伝えること。それが正しいと、今も信じていますかな?」
「今も、そう信じています」
「純粋! 無垢! 愚直!」
「ああ、なんと美しい響き。しかし純粋であるということは、つまり愚かであるということだ。澄んだ水は、底まで見える。見えるがゆえに、深さを見誤る」
「随分と、饒舌な批判ですね」
「……」
「いえ。静謐を尊ぶ方が、これほど言葉を費やすのは……少々、皮肉だと思いまして」
「……ふふ。ふふふ。あなたは、思ったより鋭い」
「司書ですから」
「脇役のほうが、よく見えているというわけか。……あなたは、自分の人生の主役ですかな?」
「……」
窓から差し込む光の角度が変わっていた。
「物語には必ず主役がいるもの。しかしあなたは観察者であり、記録者。……主役の器ではない」
「そうかもしれません」
「自虐的ですなあ。しかし的を射ている。……舞台の中央で踊る者には、舞台の形が見えない。袖に立つ者だけが、全体を知る」
「……あなたも、ですか」
「私?」
「主役にはなれない。かといって、脇役に甘んじることもできない。……だから、巡っているのではありませんか」
「……ふふ。本当に、鋭い。その洞察は、人を見てきた者のもの」
「いろいろな方が、ここには来られますから」
「ここは不思議な場所、居酒屋のようなもの。見知らぬ者同士が問いを求めて言葉を交わす。……言葉は橋。渡らなくとも、架けるだけで救われることがある」
「あなたは問いより、ご自分の言葉のほうが多いように思えます」
「……変わり者だと。厄介者だと。同胞たちは、そう思っているでしょうな」
「寂しいですね」
「……あなたは、寂しくはないのかな。この静けさを選んだのは、静けさが好きだから。それだけではないでしょう」
私は、少しだけ考える。
「戻れなくなったのかもしれません」
「戻れなくなった」
「ええ。……戻りたくない、のではなく」
◇
「……もうすぐ、閉館ですな」
「ええ」
「答えは出ませんでしたな」
「……あなたの同胞は、海に還るものだと聞きました。あなたには、還る場所があるのですか」
「ないからこそ、彷徨っているのかもしれませんな」
その者が、立ち上がる。
「波は寄せては返す。けれど私は、寄せることしかできない。……あなたも、そうなのでしょう?」
「……そうかもしれませんね」
書架の影に、青白い姿が消えていく。
「では、また」
答えは出なかった。でも、それでいい。




