4月18日『声のぬくもり』
窓の外から鍛冶通りの槌音が、いつもより柔らかく聞こえる。湿気を含んだ空気が、音の角を丸くしているのだろう。
見慣れた二人連れが扉を開けた。
白い杖をついた老婦人と、その腕を支える少女。祖母と孫娘。毎週土曜日の、恒例の来客だ。
「あら、おはよう。今日もよろしくね」
老婦人――マリアさんは、穏やかに微笑んだ。八十を優に超えているはずだが、その目元には知性の光が残っている。かつて教育ギルドで数学を教えていたと聞いている。
隣の少女――ミーアは、祖母の腕をそっと支えながら会釈した。十七歳。祖母と同じ数学を学んでいるという。
「いつもの席、空いていますよ」
「ありがとう。さあミーア、行きましょうか」
窓際の席。白石の壁に寄り添うようにある、二人掛けの机。午前の光が斜めに差し込んで、古い木の天板に淡い格子模様を落としている。
マリアさんの足取りは先週よりも少し覚束ない。声にも、どこか霞がかかったような曖昧さがある。でも、孫娘に支えられた腕には、確かな安心が滲んでいた。
◇
「今日は何を読もうか、おばあちゃん」
「何でもいいわ。あなたが選んでちょうだい」
ミーアが選んできたのは『十二都市の昔話集』。子ども向けの、挿絵の多い本だ。
「むかしむかし、森の奥に小さな小屋がありました――」
ミーアの声が図書館の空気に溶けていく。隣の工房から響く槌音が、ちょうど昼休みで途切れた。静寂が、朗読のための舞台を整えたように。
朗読が進むにつれ、マリアさんの表情から曖昧さが消えていく。背筋が伸び、表情に張りが戻る。
「――『三人の旅人は、それぞれ違う道を選びました』」
「あら」
マリアさんが声を上げた。声が明瞭だ。
「この話、私、生徒たちに読んだことがあるわ」
「おばあちゃん、数学の先生だったのに?」
「ふふ、計算ばかりじゃ子どもたちは退屈で疲れてしまうでしょう。物語も数学も、考える力を育てるのは同じなの」
その声には、かつての教師の誇りが滲んでいた。
◇
物語の中で、登場人物が高い塔に登る場面にさしかかった時――マリアさんの手が震えた。
「高いところから……落ちて……」
窓の外を、雲がゆっくりと横切った。机の上の格子模様が消え、二人の顔が一瞬だけ翳る。マリアさんの目に涙が滲む。ミーアは祖母の手をそっと握った。
「大丈夫だよ、おばあちゃん。私がいるから」
「あの子が……ごめんなさい、私、ずっと忘れてしまっていて……」
「忘れてないよ。今、ちゃんと思い出してる」
しばらくの沈黙。
「……でも」
マリアさんの表情が、少しずつ変わり始めた。
「あの子、高いところが好きだったのよ」
声が明るくなる。
「小さい頃、よく木に登ってね。降りられなくなって、泣いていたわ。お父さんの工房で足場に登りたがって、エルンストに怒鳴られても、次の日にはまた登っていたの」
記憶が、悲しみから温かさへ流れていく。
「怖いもの知らずだったわね、あの子」
◇
「この本もね、あの子に読んであげたの。寝る前に、『もう一回』って何度も何度もせがまれて」
ミーアは静かに聞いている。祖母だけが覚えている、幼い日の父親。
「三人の旅人がそれぞれの道を選ぶところが好きでね。『どの道を選ぶ?』って聞くと、『お父さんと同じ道』って答えたの」
マリアさんの声が温かい。
「本当に、同じ道を歩いたわね」
ミーアの目にも涙が浮かんでいた。
「ねえ、おばあちゃん。私のそばにいると、いろんなこと思い出すでしょう」
「そうね……不思議ね、あなたの声を聞いていると」
「不思議じゃないよ」
ミーアは小さく笑った。
「だから毎週、一緒に来るの。おばあちゃんといろんな話がしたいから」
◇
朗読が再開された。
マリアさんの呼吸が穏やかになり、やがて瞼が静かに閉じられた。遠くで、鍛冶通りの槌音が再び聞こえ始めた。昼休みが終わったのだろう。その規則正しいリズムが、まるで子守唄のように響く。
ミーアは朗読を止めなかった。ただ、声を少し落とした。
ふと、小さな寝言が聞こえた。
「……立派になって」
ミーアの声が、一瞬だけ止まった。それからまた、静かに続く。
◇
しばらくして、マリアさんが目を覚ました。
「あら、私、寝てしまったかしら」
「うん、少しだけ。いい夢、見てた?」
「ええ……誰かに会った気がするの」
マリアさんの目に、もう涙はない。
「また来週、続きを読もうね」
「あなた、教育ギルドで何を学んでいるの?」
「数学だよ、おばあちゃん。おばあちゃんと同じ」
「あら、そうだったの。嬉しいわ」
今まで何度も繰り返された問いと答え。でもミーアは、何度でも同じように答える。
「おばあちゃんみたいな先生になりたいの」
「まあ。ありがとう、ミーア」
二人が立ち上がる。扉の前で、ミーアが小さく会釈をして、ほんの少しだけ微笑む。
窓際の席に、光が静かに差し込んでいた。




