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或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
18/26

4月18日『声のぬくもり』

挿絵(By みてみん)

 窓の外から鍛冶通りの槌音が、いつもより柔らかく聞こえる。湿気を含んだ空気が、音の角を丸くしているのだろう。


 見慣れた二人連れが扉を開けた。


 白い杖をついた老婦人と、その腕を支える少女。祖母と孫娘。毎週土曜日の、恒例の来客だ。


「あら、おはよう。今日もよろしくね」


 老婦人――マリアさんは、穏やかに微笑んだ。八十を優に超えているはずだが、その目元には知性の光が残っている。かつて教育ギルドで数学を教えていたと聞いている。


 隣の少女――ミーアは、祖母の腕をそっと支えながら会釈した。十七歳。祖母と同じ数学を学んでいるという。


「いつもの席、空いていますよ」


「ありがとう。さあミーア、行きましょうか」


 窓際の席。白石の壁に寄り添うようにある、二人掛けの机。午前の光が斜めに差し込んで、古い木の天板に淡い格子模様を落としている。


 マリアさんの足取りは先週よりも少し覚束ない。声にも、どこか霞がかかったような曖昧さがある。でも、孫娘に支えられた腕には、確かな安心が滲んでいた。


           ◇


「今日は何を読もうか、おばあちゃん」


「何でもいいわ。あなたが選んでちょうだい」


 ミーアが選んできたのは『十二都市の昔話集』。子ども向けの、挿絵の多い本だ。


「むかしむかし、森の奥に小さな小屋がありました――」


 ミーアの声が図書館の空気に溶けていく。隣の工房から響く槌音が、ちょうど昼休みで途切れた。静寂が、朗読のための舞台を整えたように。


 朗読が進むにつれ、マリアさんの表情から曖昧さが消えていく。背筋が伸び、表情に張りが戻る。


「――『三人の旅人は、それぞれ違う道を選びました』」


「あら」


 マリアさんが声を上げた。声が明瞭だ。


「この話、私、生徒たちに読んだことがあるわ」


「おばあちゃん、数学の先生だったのに?」


「ふふ、計算ばかりじゃ子どもたちは退屈で疲れてしまうでしょう。物語も数学も、考える力を育てるのは同じなの」


 その声には、かつての教師の誇りが滲んでいた。


           ◇


 物語の中で、登場人物が高い塔に登る場面にさしかかった時――マリアさんの手が震えた。


「高いところから……落ちて……」


 窓の外を、雲がゆっくりと横切った。机の上の格子模様が消え、二人の顔が一瞬だけ翳る。マリアさんの目に涙が滲む。ミーアは祖母の手をそっと握った。


「大丈夫だよ、おばあちゃん。私がいるから」


「あの子が……ごめんなさい、私、ずっと忘れてしまっていて……」


「忘れてないよ。今、ちゃんと思い出してる」


 しばらくの沈黙。


「……でも」


 マリアさんの表情が、少しずつ変わり始めた。


「あの子、高いところが好きだったのよ」


 声が明るくなる。


「小さい頃、よく木に登ってね。降りられなくなって、泣いていたわ。お父さんの工房で足場に登りたがって、エルンストに怒鳴られても、次の日にはまた登っていたの」


 記憶が、悲しみから温かさへ流れていく。


「怖いもの知らずだったわね、あの子」


           ◇


「この本もね、あの子に読んであげたの。寝る前に、『もう一回』って何度も何度もせがまれて」


 ミーアは静かに聞いている。祖母だけが覚えている、幼い日の父親。


「三人の旅人がそれぞれの道を選ぶところが好きでね。『どの道を選ぶ?』って聞くと、『お父さんと同じ道』って答えたの」


 マリアさんの声が温かい。


「本当に、同じ道を歩いたわね」


 ミーアの目にも涙が浮かんでいた。


「ねえ、おばあちゃん。私のそばにいると、いろんなこと思い出すでしょう」


「そうね……不思議ね、あなたの声を聞いていると」


「不思議じゃないよ」


 ミーアは小さく笑った。


「だから毎週、一緒に来るの。おばあちゃんといろんな話がしたいから」


           ◇


 朗読が再開された。


 マリアさんの呼吸が穏やかになり、やがて瞼が静かに閉じられた。遠くで、鍛冶通りの槌音が再び聞こえ始めた。昼休みが終わったのだろう。その規則正しいリズムが、まるで子守唄のように響く。


 ミーアは朗読を止めなかった。ただ、声を少し落とした。


 ふと、小さな寝言が聞こえた。


「……立派になって」


 ミーアの声が、一瞬だけ止まった。それからまた、静かに続く。


           ◇


 しばらくして、マリアさんが目を覚ました。


「あら、私、寝てしまったかしら」


「うん、少しだけ。いい夢、見てた?」


「ええ……誰かに会った気がするの」


 マリアさんの目に、もう涙はない。


「また来週、続きを読もうね」


「あなた、教育ギルドで何を学んでいるの?」


「数学だよ、おばあちゃん。おばあちゃんと同じ」


「あら、そうだったの。嬉しいわ」


 今まで何度も繰り返された問いと答え。でもミーアは、何度でも同じように答える。


「おばあちゃんみたいな先生になりたいの」


「まあ。ありがとう、ミーア」


 二人が立ち上がる。扉の前で、ミーアが小さく会釈をして、ほんの少しだけ微笑む。


 窓際の席に、光が静かに差し込んでいた。

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