表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
或る司書の逸話  作者: セドカンナレオ / クローディア
17/26

4月17日『灯りの下で』

挿絵(By みてみん)

 その日の午後。私は図書館の扉を開けた。


 扉を押すと、紙と革と、かすかに白檀の混じった匂いが流れてきた。一か月前と同じ匂い。でも今日は、息が詰まらない。


 隣の鍛冶工房から、金属を打つ音が響いている。この街では、どこにいてもこの音が聞こえる。


 左腕を、無意識にさする。傷は塞がっている。でも、指先に残る鈍い痺れは消えない。


 それでも今日は、少しだけ違う。初めての作品を、提出してきたばかりだ。


            ◇


 一か月前のことを思い出す。


 遠い土地から出てきた私は、都会の眩しさに目を細めていた。工房を探して歩き回った。どこも断られた。腕を見せると、皆同じ顔をした。


 ある雨の日、路地で立ち尽くしていた。傘もなく、行く場所もなく。


 そこに、一人の老人が現れた。私と同じくらいの背丈。小柄だけれど、手には長年の仕事で刻まれた皺があった。


「濡れるぞ」


 それだけ言って、傘を差し出した。私が呆然としていると、老人は「ついて来い」と歩き出した。


 連れていかれたのは、路地の奥にある小さな銀細工の工房だった。煉瓦の壁は煤けて黒ずみ、木製の看板は文字が薄れている。けれど、その古さには落ち着きがあった。工具の油と金属の粉の匂い。図書館の匂いとは違うけど、どちらも仕事の匂いだ。


「腕、見せろ」


 私は迷った。でも、もう隠しても仕方がなかった。傷を見せた。老人は何も言わなかった。


「明日から来い」


 それが、親方との出会いだった。


            ◇


 親方は無口だった。技術を教える時も、言葉は少ない。でも、一つだけ何度も言われた。


「本を読め。技術は手だけで覚えるもんじゃない」


 私は図書館に行った。利用証を作った。


 司書さんが言った。


「――本当の鍵は、ご自身の中にあるのかもしれませんね」


 その言葉を、ずっと抱えてきた。


            ◇


 工房には、先輩がいた。


 ルーカスさん。二十五歳。日に焼けた肌と、太い指。私より頭二つ分は背が高い。


 銀細工師としての腕は一流だった。あの太い指から、信じられないほど繊細な装飾品が生まれる。


 私が工房の隅で本を読んでいると、よく覗き込んできた。


「おー、また本か。お前さ、本ばっかだな」


「ルーカスさんは、読まないんですか?」


「俺? 読まねえよ。体で覚える方が性に合ってんだ」


 ルーカスさんは図を見る。でも、文字の部分は絶対に見ない。本を渡しても、すぐ返す。


 ある時、私は気づいた。この人、読めないのではないだろうか。でも、何も聞かなかった。


            ◇


 作品の提出前夜、工房で二人きりになった。


 私が本を読んでいると、ルーカスさんが口を開いた。


「なあ。お前、気づいてんだろ」


 私は黙っていた。


「……俺、字が読めねえんだ。孤児でさ、学校なんか行ったことねえ。親方にも言ってない」


 私は、左腕をさすった。


「……私も、隠しているものがあります。この腕、もう完全には動かないんです」


 二人で黙って向かい合った。


「俺たち、似てんな」

「そう、かもしれません」


 それだけで、何かが通じた気がした。


            ◇


 そして今日の朝。


 提出前に、親方とルーカスさんに見せた。小さな花のブローチ。


「悪くない」と親方。「悪くねえじゃん」とルーカスさん。


 同じ言葉。それが、この工房の褒め言葉なのだと知った。


            ◇


 図書館のカウンターの向こうに、銀青の髪が見えた。あの日と同じ場所に、同じように立っている。


「初めての作品を、提出してきました」


「そうでしたか。おめでとうございます、セラさん」


 借りていた本を返却した。


「本当の鍵は、見つかりましたか」


「まだ途中だと思います。……でも、扉は開いた気がします」


 司書さんは、静かに微笑んだ。


 私は、児童書の棚へ向かった。探していたのは、子供の頃に読んだ本。


 『銀の鳥と金の森』。


 遠い土地でも読まれていた物語。絵がたくさんあって、文字は少ない。母が読んでくれた本。


 司書さんに借りたいと言った。


「良い本を選ばれましたね」


 司書さんは、それ以上何も聞かなかった。


            ◇


 夜。工房の仕事が終わった後。


 親方が奥の部屋に引っ込んでから、私はルーカスさんに声をかけた。


「少し、残っていてもらえますか」


 私は、鞄から本を取り出した。『銀の鳥と金の森』。


「一緒に、読みませんか」


 ルーカスさんの目が、一瞬揺れた。


「読んでくれんのか。俺に」


「はい。私が声に出して読みます。ルーカスさんは、絵を見ていてください」


「そういうの、ガキがやるもんだろ」


「私、子供の頃に読んでもらうの、好きだったんです」


 ルーカスさんはしばらく黙っていた。それから、ぼそりと言った。


「聞いたことねえんだ。誰かに本を読んでもらったこと、一度も」


 私は本を開いた。


「じゃあ、初めてですね」


 ルーカスさんが、ふっと笑った。


「お前、意外と押しが強いな」


 私も、少しだけ笑った。


            ◇


 窓の外は暗い。鍛冶の音も止んでいる。


 作業台の上のランプが、ページを黄色く照らしていた。私は読み始めた。


 「――『むかしむかし、銀の翼をもつ鳥がいました』」


 ルーカスさんは、黙って絵を見ていた。ページをめくる。


 「――『鳥はひとりぼっちでした。だれも、銀の翼を持つ鳥を……』」


 私の声だけが、静かな工房に響く。


 金曜の夜。


 物語は、まだ途中。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ