4月17日『灯りの下で』
その日の午後。私は図書館の扉を開けた。
扉を押すと、紙と革と、かすかに白檀の混じった匂いが流れてきた。一か月前と同じ匂い。でも今日は、息が詰まらない。
隣の鍛冶工房から、金属を打つ音が響いている。この街では、どこにいてもこの音が聞こえる。
左腕を、無意識にさする。傷は塞がっている。でも、指先に残る鈍い痺れは消えない。
それでも今日は、少しだけ違う。初めての作品を、提出してきたばかりだ。
◇
一か月前のことを思い出す。
遠い土地から出てきた私は、都会の眩しさに目を細めていた。工房を探して歩き回った。どこも断られた。腕を見せると、皆同じ顔をした。
ある雨の日、路地で立ち尽くしていた。傘もなく、行く場所もなく。
そこに、一人の老人が現れた。私と同じくらいの背丈。小柄だけれど、手には長年の仕事で刻まれた皺があった。
「濡れるぞ」
それだけ言って、傘を差し出した。私が呆然としていると、老人は「ついて来い」と歩き出した。
連れていかれたのは、路地の奥にある小さな銀細工の工房だった。煉瓦の壁は煤けて黒ずみ、木製の看板は文字が薄れている。けれど、その古さには落ち着きがあった。工具の油と金属の粉の匂い。図書館の匂いとは違うけど、どちらも仕事の匂いだ。
「腕、見せろ」
私は迷った。でも、もう隠しても仕方がなかった。傷を見せた。老人は何も言わなかった。
「明日から来い」
それが、親方との出会いだった。
◇
親方は無口だった。技術を教える時も、言葉は少ない。でも、一つだけ何度も言われた。
「本を読め。技術は手だけで覚えるもんじゃない」
私は図書館に行った。利用証を作った。
司書さんが言った。
「――本当の鍵は、ご自身の中にあるのかもしれませんね」
その言葉を、ずっと抱えてきた。
◇
工房には、先輩がいた。
ルーカスさん。二十五歳。日に焼けた肌と、太い指。私より頭二つ分は背が高い。
銀細工師としての腕は一流だった。あの太い指から、信じられないほど繊細な装飾品が生まれる。
私が工房の隅で本を読んでいると、よく覗き込んできた。
「おー、また本か。お前さ、本ばっかだな」
「ルーカスさんは、読まないんですか?」
「俺? 読まねえよ。体で覚える方が性に合ってんだ」
ルーカスさんは図を見る。でも、文字の部分は絶対に見ない。本を渡しても、すぐ返す。
ある時、私は気づいた。この人、読めないのではないだろうか。でも、何も聞かなかった。
◇
作品の提出前夜、工房で二人きりになった。
私が本を読んでいると、ルーカスさんが口を開いた。
「なあ。お前、気づいてんだろ」
私は黙っていた。
「……俺、字が読めねえんだ。孤児でさ、学校なんか行ったことねえ。親方にも言ってない」
私は、左腕をさすった。
「……私も、隠しているものがあります。この腕、もう完全には動かないんです」
二人で黙って向かい合った。
「俺たち、似てんな」
「そう、かもしれません」
それだけで、何かが通じた気がした。
◇
そして今日の朝。
提出前に、親方とルーカスさんに見せた。小さな花のブローチ。
「悪くない」と親方。「悪くねえじゃん」とルーカスさん。
同じ言葉。それが、この工房の褒め言葉なのだと知った。
◇
図書館のカウンターの向こうに、銀青の髪が見えた。あの日と同じ場所に、同じように立っている。
「初めての作品を、提出してきました」
「そうでしたか。おめでとうございます、セラさん」
借りていた本を返却した。
「本当の鍵は、見つかりましたか」
「まだ途中だと思います。……でも、扉は開いた気がします」
司書さんは、静かに微笑んだ。
私は、児童書の棚へ向かった。探していたのは、子供の頃に読んだ本。
『銀の鳥と金の森』。
遠い土地でも読まれていた物語。絵がたくさんあって、文字は少ない。母が読んでくれた本。
司書さんに借りたいと言った。
「良い本を選ばれましたね」
司書さんは、それ以上何も聞かなかった。
◇
夜。工房の仕事が終わった後。
親方が奥の部屋に引っ込んでから、私はルーカスさんに声をかけた。
「少し、残っていてもらえますか」
私は、鞄から本を取り出した。『銀の鳥と金の森』。
「一緒に、読みませんか」
ルーカスさんの目が、一瞬揺れた。
「読んでくれんのか。俺に」
「はい。私が声に出して読みます。ルーカスさんは、絵を見ていてください」
「そういうの、ガキがやるもんだろ」
「私、子供の頃に読んでもらうの、好きだったんです」
ルーカスさんはしばらく黙っていた。それから、ぼそりと言った。
「聞いたことねえんだ。誰かに本を読んでもらったこと、一度も」
私は本を開いた。
「じゃあ、初めてですね」
ルーカスさんが、ふっと笑った。
「お前、意外と押しが強いな」
私も、少しだけ笑った。
◇
窓の外は暗い。鍛冶の音も止んでいる。
作業台の上のランプが、ページを黄色く照らしていた。私は読み始めた。
「――『むかしむかし、銀の翼をもつ鳥がいました』」
ルーカスさんは、黙って絵を見ていた。ページをめくる。
「――『鳥はひとりぼっちでした。だれも、銀の翼を持つ鳥を……』」
私の声だけが、静かな工房に響く。
金曜の夜。
物語は、まだ途中。




