4月16日『次のページへ』
郷土資料室の扉が開いて、二人連れが入ってきた。窓の少ないこの部屋は、午後になると灯りなしでは背表紙が読みにくい。
「すごい……本がたくさんありますね」
若い声が響く。騎士学校の制服を着た青年だ。毛並みに艶があり、目を輝かせて書架を見回している。
その後ろを、老騎士が歩いていた。灰色の毛並みに白いものが混じり、右耳には古い傷跡がある。戦いで負った傷だと聞いた。
彼は数十年来の常連だ。いつもは一人で来る。
「自分、図書館は初めてです」
青年が振り返った。尻尾が揺れている。
老騎士は何も言わない。ただ、小さく頷いた。
私はカウンターから、その背中を見ていた。老騎士がいつもと違う表情をしている。父親が息子を見守るような目だ。
◇
「……灰谷の戦いの資料、どこにありますかね」
青年が呟く。老騎士は黙って、書架の奥を指した。
「四十年前か……自分が生まれるずっと前です」
老騎士は答えない。隣の鍛冶工房から、金属を打つ音が響いてくる。
青年が古い紙束を差し出した。表紙の革が乾いて、端がめくれている。『灰谷鉱山 戦闘報告書』。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【損害】死者一○三名 負傷者二十三名 生存者一七名
中隊長 戦死
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
老騎士の手が止まった。指先が紙の上で動かない。青年が何か言っている。でも、もう聞こえていないのだろう。
私は気づいた。彼は、そこにいたのだ。
報告書を見つめる老騎士の横顔。目が、遠くを見ている。
あの頃、彼も若かった。今の青年と同じくらいの歳だったはずだ。
中隊長という人がいた。父のような存在だったと、いつか彼が話していた。
『忠義とは、生き残ることだ』
中隊長の口癖だったという。
◇
灰谷の戦い。マレフとフリア、両都市の境にある鉱山で起きた衝突だ。採掘が始まったばかりの新しい鉱山だった。採掘権をめぐる小競り合いが、いつの間にか剣を抜く事態になった。
第三中隊、百二十名。その中に、一人の若い騎士がいた。
『必ず全員で帰る』
中隊長はそう言った。
◇
坑道はまだ浅かった。それでも、敵も味方も地下で入り乱れた。
炎と煙。
悲鳴が響く。味方か、敵か、鉱夫か、もうわからない。
足元がぬめる。敵も味方も、同じ色の血を流していた。
坑道の奥には鉱夫たちがいた。そして、その家族も。報告書には載らない命。
剣を振るう。
隣の仲間が倒れる。
熱風が顔を焼く。
前へ。前へ。
そして、坑道の奥から甘い匂いが漂ってきた。鉱山のガスだ。
誰かが叫んだ。遅かった。
閃光。中隊長が、彼を突き飛ばした。
轟音。坑道が崩れた。
気がつくと、埋もれた坑道の外にいた。右耳が熱い。血が流れている。
目の前に、中隊長がいた。彼をかばうように瓦礫を背負い倒れていた。
『……聞こえるか』
声が出なかった。ただ、頷いた。
『お前が生き残れ。そして、伝えろ』
中隊長は、それきり目を閉じた。
隣の鍛冶工房から、金属を打つ音が響いてくる。彼の耳には、剣戟の音が重なっているのだろう。
◇
戦いは終わった。両軍合わせて、数百の命が失われた。
彼は遺族を訪ね始めた。戦友の家。鉱夫の家。一軒一軒、扉を叩いた。
話を聞いた。書き留めた。三十年かけて、少しずつ。
◇
「大丈夫ですか」
青年の声が、遠くから聞こえる。老騎士が我に返った。右耳に、手を当てていた。
青年が心配そうに見ている。何か聞きたそうにしている。でも、聞かない。まっすぐな目だ。
老騎士は、鞄から古い冊子を取り出した。『灰谷の戦い・戦友録』。
青年に差し出す。言葉はない。
青年が受け取り、開いた。百三の名前がある。そして、その後ろにはもう一つの名簿があった。……報告書には載らなかった者たちの。
「これは……」
老騎士は、小さく頷いた。
「先月、卒業したんです。今は配属待ちで」
青年は、戦友録を抱きしめるようにして言った。
「警備兵団です。今は何も起きてないですけど、いつか有事の際には、自分も誰かを守れる騎士になりたいんです」
老騎士は、そっと青年の肩に手を置いた。
◇
青年が先を歩く。戦友録を、大事そうに抱えている。
老騎士が、その後ろを歩く。見守るように。
二人の影が、夕日の中に消えていく。青年が先を歩き、老騎士がその半歩後ろを歩いている。
隣の鍛冶工房から、金属を打つ音が響いている。今日は、ただの鍛冶の音だ。
春の黄昏。図書館は静かに、記憶を見送っている。




