4月15日『小さな画家』
昼下がり。二階の閲覧室は午後になると西側の窓から光が斜めに入る。その窓際に、一人の少年が座っている。
大柄な体躯だが、どこか猫背気味だ。口元から覗く牙はまだ小さく、あどけない顔立ちをしている。膝の上の画帳に鉛筆を走らせては外を見上げ、また走らせる。
彼がここに来るようになったのは、一週間ほど前のことだ。教育ギルドの実技試験に落ちたと、初めて来た日に話してくれた。
「僕、炎の音が苦手で。……でも、絵を描くのは好きなんです」
それ以上のことは聞いていない。けれど、彼の笑顔の奥に何かがあることは、わかっていた。
◇
今日も、彼は街並みを描いている。窓の向こうに見えるままを——煙突から立ち上る蒸気。工房の黒い屋根。遠くの丘の稜線。午後の光が煙を薄く透かしている。
鉛筆の動きには迷いがない。大きな手が、伸びやかな線を紡いでいく。時折、目を細めて遠くを見る。風景を『見る』だけでなく、何かを『感じ取って』いるような目だ。
ふと、その手が止まった。鉛筆を画帳の溝に挟み、鞄から一枚の紙片を取り出す。端が擦り切れている。何度も広げて見たのだろう。
私が近づくと、彼は少し恥ずかしそうに紙片を隠した。
「あ、その、好きな画家がいるんです」
少し迷ってから、彼は紙片を見せてくれた。古い画集から切り抜いたらしい、一枚の複製画だった。
「エドゥアール・ヴィトっていう人で。この人の絵、すごく大胆で、広くて。空気がそのまま描いてあるみたいな、そんな気がして」
エドゥアール・ヴィト。その名前には聞き覚えがあった。
「僕もこんな絵が描きたいんです」
そう言った時の目は、本当に輝いていた。けれど、すぐに翳りが差した。
「でも、こんなことしてる場合じゃないのかなって」
彼は外を見ながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「父さん、職人なんですけど、腰を悪くしちゃって。今は兄さんがほとんどやってるんです。兄さんは教育ギルドも一発で受かったし、鍛冶も上手いし。……牙も立派だし」
彼は自分の口元に触れた。
「僕も手伝ってるんです。でも金槌を振ると腕がすぐ痺れちゃって。試験の時も、炎が燃え上がる音がしたら体が動かなくなって。手から……落としちゃって」
彼は無意識に右手を左手で包んだ。あの日の感触が、まだ残っているのだろう。
「兄さんは褒められてたのに」
彼は小さく笑った。その笑顔が、私には痛ましく映った。
「母さんは『大丈夫よ』って言ってくれるんです。でも、その優しさが一番苦しいっていうか。『できない子だから仕方ない』って認められてるみたいで」
彼は画帳を握りしめた。
「でも、描いてる時だけ、そういうこと忘れられるんです」
私はその言葉を、静かに受け止めていた。
◇
『街角の画家たち――さまざまな道を歩んだ者たちの軌跡』。
「この本に、ヴィトの章があったはずです」
少年は目を輝かせて本を受け取り、該当のページを開いた。しばらく読み進めるうち、その表情が変わった。
「え。ヴィトさん、こんなに背の低い方だったんですか」
「ええ。君の半分ほどの背丈しかない種族ですね」
「あの絵を描いた人が?」
少年は食い入るようにページを見つめた。
「時計職人の家に生まれたのですが、細かい作業ができなかったそうです。器用な兄たちが家業を継ぐ中、彼だけは窓辺で絵を描いていた、と」
少年は少し震えていた。
「こんなに小さな人が、あんなに大きな絵を描いたんだ。不器用で、できないことがあって――それでも」
◇
少年は本を借りていくことにした。貸出手続きをしながら、私は言った。
「ヴィトは三十代で認められたそうです。それまでは看板を描いたり、店の装飾を手伝ったりしていたようですよ」
少年は少し考え込み、それから頷いた。
「僕、鍛冶は下手だけど、看板の絵なら描けるかもしれない。兄さんは鍛冶で、僕は絵で」
画帳と本を鞄にしまい、立ち上がる。大きな体が、窓からの光を受けている。
「ありがとうございます。話、聞いてくれて」
小さな牙を見せて笑い、彼は帰っていった。
窓の向こう、煙突の煙が、丘の稜線に溶けていく。
少年が描いていた、あの風景が、春の霞の中に静かに揺れている。




