4月13日『遠回り』
その日の朝。俺は図書館に逃げ込んだ。
工房には「水を汲みに行く」と言って出てきた。嘘だ。井戸は反対方向にある。父さんは何も言わなかった。気づいていたと思う。
久しぶりの図書館だ。
小さい頃はよく来た。冒険者の手記を読むのが好きだった。知らない土地、見たこともない景色。窯の前に座っているだけの毎日とは、まるで違う世界。
――いつか俺も。
そんなことを思っていた頃が、遠い昔みたいだ。
◇
三日前、俺は父さんの壺を割った。
注文品だった。祝い事用の大きな壺。父さんが一週間かけて形を作り、絵付けをして、あとは本焼きだけだった。
「窯を見ていろ」
簡単な仕事だ。温度を一定に保つだけ。炎属性の俺には、向いているはずの――
でも、炎が安定しなかった。揺れる。大きくなったり、小さくなったり。
焦った。温度が下がってきた気がした。もっと火力をっ。
パキン。
窯の中で、壺が割れる音がした。
父さんは窯を覗いて、長い息を吐いた。
「……ごめん」
俺の声が震えた。
父さんは振り返らなかった。背中を向けたまま、静かに言った。
「窯のせいか」
違う。そうじゃない。
「土のせいか。釉薬のせいか」
「俺の――」
「なら周りを見るな」
父さんの声は低かった。怒鳴られるより、ずっと重い。
「自らをもっと見つめろ。お前が揺れるから、炎が揺れる」
俺は黙った。
「焦る炎は器を割る。何度言えばわかる」
子供の頃から何度も聞かされてきた言葉だ。
◇
どれくらい座っていただろう。
ふと、本棚の方へ歩いた。「能力と技術」の棚。高い位置に『炎の制御と応用』という本がある。背伸びして手を伸ばす。届かない。
「それ?」
後ろから声がした。
振り返ると、三十代くらいの女の人が立っていた。黒い髪を後ろで束ねている。腕には古い傷痕。獣の爪で引っかかれたような、深い傷がいくつも。
女の人が本を取って、俺に差し出した。
「……ありがとうございます」
受け取りながら、傷痕から目が離せなかった。
「冒険者、ですか」
口をついて出た。しまった、と思った。初対面でいきなり。でも女の人は、少し驚いた顔をしただけだった。
「……まあ、そうだね。十年以上やってたかな」
「やってた?」
「今は違う仕事を探してる」
女の人は俺の手元を見た。『炎の制御と応用』。
「炎の制御、か」
ちらりと周囲を見て、悪戯っぽく笑った。指先に小さな炎を灯し、片目を瞑って見せる。内緒だよ、というように。
俺は息を呑んだ。その炎は揺れない。静かに燃えている。
「その本、役に立つといいね」
女の人は軽く言って、立ち去ろうとした。
「あの――」
声が出た。自分でも驚いた。
「俺……陶工なんです。家が窯元で。でも、炎が言うこと聞かなくて」
女の人の足が止まった。
「焦ると、暴れるんです。この前も、父さんの作品を……割っちゃって」
なんで初対面の人にこんなこと話してるんだ。でも、誰かに聞いてほしかった。ずっと。
「……向いてないんです、俺には」
女の人は少しの間、何も言わなかった。遠くを見ていた。
「十四年前」
静かな声だった。
「私も、大切なものを燃やした。祖母の写本だった。三代受け継がれてきた本を、私の手で灰にしたの」
息を呑んだ。
「感情が高ぶると、力が暴走する。……君も知ってるでしょ」
……知ってる。痛いほど。
「その時、私も思った。向いてないって」
女の人の声は静かだった。でも、その奥に何かが燃えているのがわかった。
「でもね――向いてるかどうかなんて、その時の自分には、わからないんだよ」
◇
女の人は窓際の席に腰を下ろした。俺もつられて、向かいに座る。
「私は戦いに使ってきた。でもね、最初から制御できたわけじゃないんだ」
「……どうやって」
「制御っていうのは、押さえつけることじゃないの。――自分の内側を、静かに保つこと」
――自らを見つめろ。
父さんの声が、ふと頭をよぎった。
女の人が鞄から一冊の本を取り出した。『ある写本師の手記』。ページを開いて、あるところを示す。誰かが線を引いている。
『――遠回りでも構わない。自分の足で歩いた道は、無駄にならない』
「この言葉に、私は救われた。君にも、合うかもしれないね」
「俺……憧れてたんです。冒険者に。子供の頃から」
女の人は黙って聞いていた。急かさない。
「窯の前に座ってるだけの毎日が嫌で嫌で。もっと広い世界を見たいって」
「……でも、炎も制御できないのに、冒険者なんて無理ですよね」
女の人は少し笑った。
「無理かどうかは、わからないよ。ただ――『今』じゃないのかもね」
「冒険者になりたいなら、まず炎を制御しないとね。戦場で暴走したら、仲間も傷つけちゃうから」
俺は黙った。
「窯の前で炎を学ぶのは、遠回りに見えるかもしれない。でもね、遠回りが一番の近道だって――私は十四年かけて、やっとわかったんだ」
女の人は窓の外を見た。
「焦ったら、失うのは目の前のものだけじゃないの。自分も壊れてしまう。私がそうだった」
胸の奥で、何かが動いた。
――焦る炎は器を割る。
父さんの言葉が、違う響きを持って蘇ってきた。
◇
女の人が立ち上がりかけて、ふと言った。
「私も、遠回りだった」
「本当はね、本に関わる仕事がしたかったの。母も祖母も、図書館で写本を作ってたから。でもこの能力で断られて、それで冒険者になった」
十四年前に燃やしたという写本。あの話と繋がった。
「十四年かけて、やっとここに戻ってきた」
女の人は小さく笑った。
「焦らずにいこう、お互いにね」
軽く手を振って、書架の向こうへ消えていった。
◇
図書館の扉を開けた。
午後の光が、少しだけ眩しかった。




