第9話「前衛は私にしか任せられない」【シルヴィ】
ノアが一人で旅に出る。
それを聞いたのは昼過ぎのことだ。救出から戻って一眠りした私は腹を満たそうと階段を降りた。帳場の女将が茶を淹れながら教えてくれた。
「万華さんね、明日の朝からしばらく一人で調査に出るんですって。銀牙さんたちには休んでいてもらうって」
「一人で? どこへだ」
「霧鳴りの洞窟とか言ってたかしら。部屋はそのままにしておいてくれって」
「……そうか」
「それにしても銀牙さん。下町じゃ噂で持ちきりですよ。肉屋の奥さんが言いふらしてるの。銀牙さんと万華さんが番になったって」
「噂は放っておけ。まだ秘密だ」
「まだ、ねえ。あらあら」
女将は思い出したように手を打った。
「そういえば万華さん、今朝も『三人には休んでてもらう』って何度も言ってましたよ。よっぽど大事にしてるのねえ」
「……当然だ」
女将は楽しそうに笑った。私は茶碗を置いた。尻尾が勝手に床を叩き始める。
狼族には古い習わしがある。番になる二人は群れを離れて旅に出る。二人きりで狩りをして同じ火を囲む。求愛の旅だ。
ノアはそのための旅を用意しているのだ。そして私を誘う機会をうかがっている。
……待て。一人で行くと言ったな。
それはルカとレゾナの手前だろう。照れ屋のあいつらしい。ならば私から迎えに行ってやればいい。
「女将。ノアは今どこにいる」
「さっき剣を抱えて出ていきましたよ。ギルドの訓練場じゃないかしら。……あら銀牙さん? お茶は?」
返事をする前に私は宿を飛び出していた。
ルカとレゾナはまだ部屋で眠っている。抜け駆けではない。早い者勝ちだ。
ギルドの訓練場では若い探索者たちが木剣を打ち合っていた。その奥でノアが一人で素振りをしている。
私の姿を見た探索者たちがざわめいた。
「ぎ、銀牙さまだ」
「今日もお美しい……あの凛としたお姿……」
「銀牙さま! よろしければ一手ご指南を!」
「あ、奥に万華さんもいる。お二人の手合わせが見られるかも」
「見せ物ではない。今日は忙しい。全員、訓練は終わりだ。場所を空けろ」
私が告げると探索者たちは木剣を抱えて我先にと出ていった。
これでいい。ノアの前の私を他人に見せるわけにはいかない。
訓練場には私とノアの二人だけが残った。
「シルヴィ? どうしたんだ。今日は休むって言ってたのに」
ノアは木剣を置いて私の後ろに回った。
「寝起きか? 尻尾の毛がはねてるぞ。ほら、ここ」
ノアの指が尻尾の付け根をすっと撫でた。
「ひゃうっ」
「あ、ごめん。くすぐったかったか」
「……う、ううん。もっと……じゃなくて。だいじょうぶ」
尻尾に触れてよいのは番だけだ。それをこいつは寝癖を直すような手つきでやってのける。
私はノアの前に立って胸を張った。狼族の戦士らしく堂々と切り出すのだ。
「ノア、ノア! 女将さんに聞いたの。明日、旅に出るんでしょ?」
声が子狼に戻っていた。まあいい。ノアと二人きりのときはいつものことだ。
「ああ。霧鳴りの洞窟の異常調査だよ。一人で受けたんだ」
「いっしょに行く! 前衛はシルヴィにしか任せられないって、ノアが言ったんだもん」
ノアは木剣を下ろした。いつもの困ったような笑顔ではなかった。真剣な目だった。
「それは本当だ。前衛を任せられるのはシルヴィしかいない」
「じゃあ……!」
「だからこそなんだ」
ノアは私に向かって深く頭を下げた。
「シルヴィの力を借りたら意味がないんだ。今回だけは一人でやらせてくれ」
尻尾が止まった。
断られた。ノアに。番の旅を。
「……やだ。ノアの背中はシルヴィが守るの。ずっとそうしてきたでしょ?」
「ああ。いつも助けられてる。昨日の森だってシルヴィがいなかったら間に合わなかった」
「昨日のはノアが八割斬ったもん」
「そんなわけないだろ。俺は残りを片付けただけだよ」
だめだ。こうなったノアは頑固だ。
「……じゃあ、せめて手合わせして。出発前のお稽古」
「いいよ。一本だけな」
私は木剣を取って構えた。踏み込む。王都最速と呼ばれる私の全力の一撃だ。
乾いた音がした。
私の木剣は宙を舞っていた。ノアの木剣が私の喉元の手前で止まっている。いつ振ったのか見えなかった。
「やっぱりシルヴィは速いな。手加減してくれてありがとう」
手加減などしていない。だがあいつは本気でそう思っている。
「……ノア、ずるい。またシルヴィの剣、見えてたでしょ」
「見えてないよ。たまたま当たっただけだ」
「うそ。……でも、かっこよかった」
「え?」
「なんでもないもん」
私は腰の袋から干し肉の包みを取り出した。
「じゃあ、これ持ってって。シルヴィの分も入ってるから。半分こ」
「いいのか? シルヴィの好物だろ」
「いいの。半分こなの」
「ありがとう。じゃあ半分もらうよ」
ノアは包みを開けて干し肉を半分に裂いた。片方を私の手に戻してくれる。
食べ物を分け合った。狼族ではこれで旅立ちの誓いが済んだことになる。ノアは何も知らずに掟を一つずつ踏んでいく。
それなのになぜ一人で行くのだ。
……そうか。わかったぞ。
狼族の男は番を迎える前に一人で大物を狩る。誰の手も借りずに力を示す。それが番の資格だ。
故郷の母の声がよみがえる。
『父さんもね、母さんを迎える前に一人で山に入って大熊を狩ってきたんだよ』
ノアは狼族の掟など知らないはずだ。それなのにあいつは同じことをしようとしている。
ノアの首元で牙の首飾りが揺れた。私が贈った婚約の印だ。ノアはそれを片手で握りしめた。
「お守りもあるしな。大丈夫だよ」
婚約の印を握って一人で行くと誓った。
もう間違いない。ノアは番の資格を一人で示そうとしているのだ。私のために。
胸の奥が熱くなった。目の奥まで熱い。
「……ノア」
「ごめんな、シルヴィ。せっかく言ってくれたのに」
ノアの手が私の頭に伸びた。耳の付け根をやさしく撫でる。昔と同じ手つきだ。
「……くぅん」
「シロもこうすると機嫌を直してくれたんだ」
シロは私だ。お前の手の下にいるのがそのシロだ。
言いたい。だが言えない。言えば番の狩りが台無しになる。
「……わかった。待ってる。でもぜったい帰ってきてね。けがしたら、やだからね」
「ああ。約束する。シルヴィも昨日の疲れが残ってるだろ。ちゃんと休んでくれよ」
「うん。休む」
ノアはほっとしたように笑って素振りに戻った。
私は訓練場の出口へ向かった。耳を撫でられた余韻で足元がふわふわする。
扉の陰にルカとレゾナが立っていた。
「……いつからいた」
「いま来たところだよ」
「今来たところです」
二人の声がそろった。ルカの目尻が妙に下がっている。レゾナは手帳を胸に抱えて唇を引き結んでいた。
まさか聞かれたか。いや。訓練場は広い。声は落としていた。聞こえるはずがない。
「お前たちもノアに用か」
「うん。女将さんに聞いたの。ノアくん、一人で行くんだってね」
「断られたのでしょう。シルヴィの尻尾がそう言っています」
レゾナが眼鏡を押し上げた。
「こ、断られてなどいない。あいつは一人で番の資格を示すつもりなのだ。狼族の掟の通りにな」
「ふうん。番の資格かあ」
ルカがにこにこ笑っている。なぜか子どもを見るような目だ。
「ルカ。その顔はなんだ」
「なんでもないよ。シルヴィはかっこいいなって思っただけ」
「当然だ。私は銀牙だからな」
「ちなみにシルヴィ。手合わせの結果はどうでしたか」
「……引き分けだ」
「木剣、天井に刺さってたよ?」
「あれは天井の点検だ」
二人がそろってうなずいた。妙に温かいうなずき方だった。
宿への帰り道。私は二人の少し前を歩きながら考えた。
狼族の掟には続きがある。番の狩りを邪魔してはならない。だが見届けるのは番の務めだ。物陰からそっとな。
明日の朝。ノアが門を出たら私も出る。
もちろん二人には内緒だ。
その夜。私は部屋で外套のフードをかぶって鏡の前に立った。
「耳はフードで隠れる。尻尾は……裾の中にしまえば問題ないだろう」
鏡の中の尻尾がぱたりと揺れて裾からはみ出した。
……問題ない。たぶん。




