第10話「別に心配はしていません」【レゾナ】
観測記録。記録者はレゾナ・グリモア。本日入手した兄さんの発言を整理する。
「今回は俺一人の仕事なんで」。宿の女将経由で入手。
結論から記す。兄さん一人では魔力の補助が足りない。
宿に戻ったところでルカが私の袖を引いた。シルヴィは先に部屋へ上がっている。
「レゾナちゃん。さっきのシルヴィ、見た?」
「見ました。『ひゃうっ』が一回。『くぅん』が一回。『ノア、ノア』が一回。記録済みです」
「本人、ばれてないと思ってるよね」
「思っています。訓練場の外の通りまで声が聞こえていましたが」
「言わないであげようね」
「協定どおりです。あの誤解は守るべきです」
ルカはくすくす笑った。それから私が抱えた筆記具の鞄に目を落とした。
「ところでレゾナちゃん。これからどこ行くの?」
「ギルドの資料室です。純粋な学術的興味です」
「ふうん。わたしは今夜、教会のお務めがあるから早く寝るね」
「そうですか。私も早く寝ます」
「ねえレゾナちゃん。変装ってしたことある?」
「ありません。なぜですか」
「ううん。なんとなく」
二人で笑い合った。どちらの言葉も観測上は信頼度が低い。
資料室の扉を開けると受付のポルテさんが記録の束を抱えて立っていた。
「あら、魔女さん。霧鳴りの洞窟の記録を探しているの?」
「はい。純粋な学術的興味です」
「そう。……過去十年分ならこの棚よ。三日前からの音の記録は七頁にあるわ。あなたならすぐ気づくと思うけれど」
「……ありがとうございます」
「ノアのこと、よろしくね」
ポルテさんはそれだけ言って窓口へ戻っていった。
七頁を開くと三日前からの異音の記録があった。ポルテさんの指摘は的確だった。元S級という噂は本当なのかもしれない。
兄さんの新人時代からの先生だという。弟子の身内に親切にするのは自然な行動だ。業務時間内の会話なので報告時間の計測からは除外する。脅威度は引き続きゼロ。
それから私は日が暮れるまで資料室にこもった。洞窟の地図。過去十年の調査報告。周辺の魔力濃度の推移。すべてを書き写して一冊にまとめた。
宿の部屋で最後の紙を綴じたとき時計の針は日付をまたいでいた。
表紙に「霧鳴りの洞窟 調査補助資料(兄さん用)」と書く。
……「兄さん用」は消しておく。私情が透けて見える。
鞄には疲労回復の薬湯を三本入れた。それから兄さんの好物の胡桃の焼き菓子を一袋。栄養補給の観点から選んだ。他意はない。
部屋を出ると廊下の奥から寝言が聞こえた。シルヴィの部屋だ。
「……のあ……いってらっしゃい……くぅん」
記録しておく。本人には伝えない。
兄さんの部屋の前に立つ。扉の下から灯りが漏れていた。
扉の前で一度だけ小声で練習する。
「兄さん。同行を申し出ます。……違います。兄さん、私も行きます。……違います」
三回目でやめた。最初の案が最も合理的だ。
扉を叩こうとした瞬間に内側から開いた。
「わっ。レゾナ?」
湯上がりの兄さんが手拭いを首にかけて立っていた。
「兄さん。少しよろしいですか」
「ああ。どうした、こんな時間に」
私は綴じた資料を差し出した。
「霧鳴りの洞窟の資料です。兄さん一人では魔力の補助が足りません。同行を申し出ます」
「これ全部、今日まとめたのか?」
兄さんが資料をめくり始めた。目が丸くなっている。
その隙に私は扉の脇の背負い袋へ薬湯三本と焼き菓子を移した。重量にして四百グラム。誤差の範囲だ。
「別に心配はしていません。兄さんが倒れると私の魔力が不安定になります。つまり自己防衛です」
「ん? なんか焼き菓子のいい匂いがしないか」
「気のせいです」
「すごいな。十年分の調査報告まである」
「要点には印をつけてあります。七頁を見てください。三日前から洞窟の奥で鐘のような音が観測されています。周辺の魔力濃度も平常の一・八倍です」
「鐘か。新人の子たちも同じことを言ってたな」
兄さんは頁をめくる手を止めずに続けた。
「よくこんなに調べたな。俺じゃ十年分を読み解くなんて無理だ」
「兄さんは一度読んだら全部覚えるでしょう」
「覚えるだけだよ。レゾナみたいに読み解けるわけじゃない」
覚えるだけ。十年分の報告書を一読で暗記する人間を私は兄さん以外に知らない。
「昨夜の魔物には人の手が加わっています。あの首輪の紋章は資料のどこにも載っていませんでした。だから危険なんです」
「レゾナ。俺がいない間、魔力は大丈夫か?」
「……三日なら持ちます」
「じゃあ三日で帰ってくる」
三日で帰る。私のために帰りを急ぐという宣言だ。たまらない……記録しておく。
「そういえば魔導院から手紙が来てたぞ。更新の、なんだっけ」
「伴侶……いえ。共鳴契約の更新完了の通知です。私が保管しておきます」
「助かる。ああいう書類はレゾナに任せっきりだな」
兄さんは最後まで目を通した。それから資料を閉じて私の手に戻した。
「ありがとな、レゾナ。でもこれは受け取れない」
「……なぜですか」
「レゾナに頼ってばかりじゃ、兄として格好がつかないだろ」
兄さんは私の頭にぽんと手を置いた。
「たまには兄らしいところを見せたいんだ。一人でやらせてくれ」
解析を開始する。
兄として格好をつけたい。誰に対して。私に対してだ。なぜ格好をつけたいのか。恋愛小説二十三冊の分析によれば答えは一つ。異性によく見られたいからだ。
つまり兄さんは私に男として見られたいのだ。
顔が熱い。心拍数が急上昇している。
「お、お兄ちゃん……」
言ってから口を押さえた。
「……兄さん。今のは咳です」
「咳? 風邪か?」
「違います。ただの咳です」
「顔も赤いぞ。それに目の下に隈ができてる。また徹夜しただろ」
兄さんが私の顔をのぞき込んだ。親指で目の下をそっとなぞる。昔からこうだ。
「ほら。部屋まで送るよ」
次の瞬間には体が浮いていた。兄さんの腕の中だ。
「に、兄さん!? 自分で歩けます」
「ふらふらしてるだろ。昔もよく本を読みながら寝落ちしてたよな」
「……重くないですか」
「軽いよ。ちゃんと食べてるか?」
「食べています。兄さんの三分の一ほど」
「それは食べてないって言うんだ」
廊下を三歩。兄さんは私の部屋の扉を肩で押し開けた。ノックはない。家族だから当然だと思っている。
寝台に降ろされて毛布までかけられた。
「おやすみ、レゾナ。資料の気持ちだけもらっとく」
「……兄さん」
「ん?」
「明日の朝食は抜かないでください。それと夜は冷えます。外套の前は閉めてください。それと」
「わかったわかった。ちゃんと気をつけるよ」
「それと……お兄ちゃ……兄さん。もう一つだけ」
「ん?」
「無事に帰ってきてください。これは心配ではありません。要望です」
「わかった。要望なら聞かないとな」
兄さんは笑って灯りを消した。扉が閉まった。
私は毛布を頭までかぶった。
兄さんは一人で行くと言った。だが魔導院の規定を思い出す。伴侶契約第十二条。契約者の一方が危険な単独行に出る場合は他方もこれに同行することができる。
同行することが「できる」。本人の許可は要件に含まれていない。
廊下の向こうでルカの部屋の扉が静かに開く音がした。足音が階段を降りていく。教会のお務めにしては早すぎる時刻だ。少し遅れてシルヴィの部屋の窓が開く音もした。二人とも何かを準備している。
抜け駆けは許さない。
観測を継続する。明日の朝は私も出る。
問題は変装だ。私は毛布から顔を出して鞄の中の予備の眼鏡を数えた。
王都で最近人気の恋愛小説第十二巻によれば眼鏡ひとつで人の印象は三割変わる。
「……三つ重ねれば九割です」
完璧な計算だ。
最後に観測記録を一行だけ追記する。
本日。兄さんに抱き上げられた。所要時間十二秒。心拍数の記録は省略する。




