第5話「守護騎士さまの夜」【ルカ】
ノアくんの背中が裏口の向こうに消えた。
残されたわたしたち三人は月明かりの下でしばらく黙って立っていた。
「……それだけ、と言ったな」
最初に口を開いたのはシルヴィだった。尻尾がしおれて地面に垂れている。
「言いました。記録済みです」
レゾナちゃんが手帳を閉じた。眼鏡はまだずり落ちたままだ。
「でも『そばに置いてください』って言ったよ。あれってほとんど告白だよね」
「ほとんどでは意味がない。狼族の掟では番の言葉は一言一句はっきり言わねばならん」
「恋愛小説の定義でも『好き』の二文字が必要です。今夜の観測値は零です」
わたしたちは顔を見合わせた。そして同時にため息をついた。
「次だ」
「次です」
「次ね」
「急がねばならん。ビリーたちが遠征から戻ったら、あいつは絶対に面白がって邪魔してくる」
「同感です。ビリーさんに知られた時点で、作戦の成功率は三割下がります」
「ゴー兄は黙って見てるだけだと思うけど……ニアさんがね」
三人で顔を見合わせて身震いした。ノアくんのお姉さんはノアくんに近づく女の子に容赦がない。
「次は狼族の正式な作法で迫る。満月の夜に遠吠えで呼び出す」
「近所迷惑です。次は理論で追い詰めます。言わざるを得ない状況を設計します」
「二人とも重いよ。次はわたしの番ね。順番はくじで決める?」
「くじは却下だ」
「却下です」
シルヴィが手に提げた包みに目を落とした。さっきから香ばしい匂いがしている。
「……この肉はどうする。番と分け合うために買ったのだが」
「三人で食べよっか。冷めちゃうのもったいないし」
「狼族の作法では肉を分け合うのは番同士の……」
「今夜だけは例外ってことで。ね?」
シルヴィはしばらく黙っていた。それから包みを開いて肉を三つに切り分けた。月明かりの下で恋敵三人が並んで肉をかじる。おかしな光景だ。
「……うまいな」
「美味しいです。データ上、最高評価です」
「ふふ。ほんとだね」
今夜のところは引き分け。でも最後に言わせるのはわたしだもの。
だってわたしには誰にも負けない思い出がある。
村の大きな木の下。木登りの競争をしていたノアくんが枝から落ちて大怪我をした日。泣きながら傷口に手を当てたわたしの手のひらから白い光があふれた。それがわたしの聖女の力が目覚めた瞬間だった。
わたしの最初の奇跡はノアくんのためのものだったの。
その夏の終わりに同じ木の下で約束をした。
「ねえノアくん。おおきくなったら、わたしとけっこんしてくれる?」
「うん。いいよ」
ノアくんは木登りの途中で振り向きもせずにそう答えた。でも約束は約束だもの。
それだけじゃない。三年前に聖女に叙任されたときにわたしは「守護騎士」の欄にノアくんの名前を書いた。
「ノアくん、ここに名前書いて」
「護衛の書類か? いいよ。ルカを守るのは昔から俺の役目だしな」
ノアくんは中身も読まずに署名した。
教会の慣習では聖女の守護騎士は生涯の伴侶を意味する。台帳の守護騎士の欄にも、わたしの字でノアくんの名前がちゃんと書いてある。ノアくんはただの護衛の役職だと思っているけれど。
来月にはまた年に一度の「守護騎士の祝福式」がある。ノアくんは健康祈願の行事だと思って毎年おとなしく参列してくれる。教会の人たちが式のあとに「おめでとうございます」と頭を下げる意味も知らないで。
「ルカ。さっきから何をにやにやしている」
「なんでもないよ、シルヴィ。ちょっと昔のことを思い出してただけ」
そのときだった。
王都の夜空に鐘の音が響いた。三度続けて。また三度。
「緊急招集の三連打だ」
シルヴィの耳がぴんと立った。さっきまでしおれていた尻尾も逆立っている。
「ギルドの鐘ですね。王都近郊で何かが起きたと推定します」
鐘が鳴りやんでしばらくすると裏口の扉が勢いよく開いた。息を切らしたノアくんが飛び込んでくる。背中にはさっきの荷物を背負ったままだ。
「三人とも! ギルドに行ってきた。北東の森の霧鳴りの洞窟で異常が出た。見たこともない魔物が漏れ出してる」
「北東の森?」
「今夜は新人たちが月光草の採取に出てる場所なんだ。F級が三組。夕方に新人のピコって子に荷物の詰め方を教えたんだけど、あの子もそこにいる」
ノアくんの声が硬い。戦いの前の声だ。
「規模は?」
レゾナちゃんが短く聞いた。
「まだわからない。でも霧鳴りはE級だ。駆け出しが腕試しに潜るような洞窟からあんな魔物が出てくるなんて普通じゃない」
「新人がいるなら急ぐぞ、ノア。夜の森は子どもには危ない」
シルヴィが拳を握った。
わたしたちの前ではシルヴィはノアくんにも剣士の口ぶりを崩さない。さっきみたいに慌てたとき以外は。でもノアくんと二人きりになると声が子犬みたいになることをわたしたちは知っている。わたしたちの階は扉の上の透かし窓から声が筒抜けなのだ。本人は誰にも気づかれていないつもりらしい。
隣のレゾナちゃんと目が合った。わたしたちは小さくうなずき合う。知らないふりをしてあげるのが恋敵の礼儀だもの。
「ポルテがローゼズを集めてくれって。たぶん今夜は眠れない」
ポルテさん。ギルドの受付の人だ。ノアくんは昔からあの人を呼び捨てにしている。新人時代からの先生だから家族みたいなものなんだって。こんな夜までお仕事なんて大変だな。
「ルカ。怪我人が出てるかもしれない。頼めるか?」
ノアくんがまっすぐわたしを見た。
「誰に言ってるの? わたしはノアくんの……」
守護騎士さまの聖女なんだから。そう言いかけて飲み込んだ。今はそれを言う時じゃない。
「……ノアくんの幼馴染で、王都の聖女なんだから。任せて」
「頼りにしてる」
ノアくんが小さく笑った。頼りにしてる。その一言で胸の奥が熱くなる。
「シルヴィ、レゾナ。装備を取ってきてくれ。北東の門で落ち合おう」
「ああ! ……肉を全部食べておいてよかった。腹が減っては戦えん」
「兄さん、触媒は私が運びます。荷物は増やさないで」
二人が宿の中へ駆け戻っていく。レゾナちゃんは振り返りざまにノアくんの手袋まで奪っていった。自分の装備より先にノアくんの手袋を整えに行くあたりがレゾナちゃんらしい。わたしは法衣の襟を整えてノアくんの隣に立った。
「ねえノアくん。さっき言ってくれたこと、本気?」
「さっき?」
「そばに置いてくださいって」
「本気だよ。俺は三人と、ローゼズのみんなと一緒にいたい。……迷惑じゃなければだけど」
三人と、か。わたしだけ、じゃないんだ。
ちょっとだけ胸がちくりとした。でも今夜は許してあげる。
「迷惑なわけないでしょ。ばか」
「ばかって」
「ばかはばかだよ。ノアくんのばか。……続きはまた今度ね。今度はわたしのお話を聞いてもらうから」
「ルカの話? 今じゃだめなのか?」
「ふふ。秘密」
ノアくんは首をかしげた。わたしはその手を取って走り出した。
宿の表に回ると女将さんが灯りを手に飛び出してきた。
「あら万華さん! さっきの旅支度はどうなったの?」
「すみません! 出ていくのはやめました!」
「あらまあ。それはよかったわ。いってらっしゃい!」
旅支度。そういえばさっきも大きな荷物を背負ってた。
まさかわたしを連れて村に帰るつもりだったとか? ……ふふ。気が早いんだから。
つないだ手に少しだけ力をこめる。小さい頃から人混みや暗い夜道ではいつもこうしてきた。迷子にならないように。離れないように。
ノアくんは当たり前のように握り返してくる。
「暗いから足元に気をつけろよ。離すなよ、ルカ」
「離さないよ。昔からずっと」
それがどんなに特別なことかも知らないで。
わたしの守護騎士さまは今夜も忙しい。




