第3話「観測記録:脅威度ゼロ」【レゾナ】
観測記録。記録者はレゾナ・グリモア。本日の戦闘後に兄さんは私の手を握った。所要時間は八秒。
幼い頃から私の魔力は強すぎた。暴走するたびに周りの大人は逃げ出した。けれどお兄ちゃんだけは違った。私の手を握って「大丈夫だ」と言った。あの頃の私は兄さんをそう呼んでいた。今でも気を抜くと口から出てしまうのが目下の悩みだ。不思議なことに兄さんの魔力に触れると私の魔力は凪いだ海のように落ち着く。魔導院はこれを「共鳴」と呼んでいる。両親を亡くした私を拾ってくれたのはバゲッジ家だった。十三の春には魔法の才を見こまれてグリモア家の養女になった。どちらの家の両親も私には甘い。養女の話を受けた理由の三割は魔法の勉強のためで、七割は戸籍の上で兄さんの妹にならずに済むからだ。血のつながらない兄とは結婚できる。その事実を兄さんに毎日思い出させるためにグリモアの姓を名乗っている。兄さんは「グリモアの家を大事にしているんだな」と感心している。
私は法衣の内ポケットに指を入れて一枚の書状を確かめた。
魔導院発行「伴侶契約更新のお知らせ」。
共鳴を安定させるためにバゲッジ家の両親が届け出た共鳴契約。それは魔導院の書式上は伴侶契約と同じものだ。本年度も更新は済ませてある。兄さんは健康診断の書類だと思って毎年署名している。
つまり法的には私が正妻だ。
探索者ギルド王都本部の広間は夕方の報告で混み合っていた。シルヴィは市場に寄ると言って別れた。私とルカは酒場の卓に座って窓口に並ぶ兄さんを待っている。
そこへ一人の少年が駆け寄ってきた。新人の証である鉄の札を首から下げている。
「あ、あの! ノアさん! 俺、新人のピコっていいます! どうしたらノアさんみたいに強くなれますか!?」
広間が静まり返った。
兄さんは少し困ったように笑った。
「俺は強くないよ。あの三人についていくので精一杯なんだ」
「え……」
「でも荷物の詰め方なら教えられる。重いものは背中側の下に入れるんだ。長く歩いても疲れにくい。新人のうちは荷物持ちを任されることも多いだろうから覚えておくといい」
少年は目を輝かせて何度も頭を下げていた。それから私たちの卓にも駆け寄ってきた。
「あ、あの、魔女さま! 聖女さま! ノアさんって本当に強くないんですか?」
「強くないというのは兄さんの自己評価です。客観的な数値で申し上げると、兄さんの剣速は銀牙の一・二倍、結界の展開速度は宮廷魔導師の約三倍、さらに――」
「レゾナちゃん、新人さんが固まってるよ」
ルカに袖を引かれて私は口を閉じた。
「け、剣速が銀牙さまの一・二倍……!? それなのにあの人、荷物の詰め方を……」
「そうだよ。だから大事にしてあげてね、その教え」
「は、はい! 一生大事にします!」
少年は口を開けたまま壁の番付を見上げている。
本日の探索者番付。個人の部一位は万華のノア。十一か月連続だ。
「ノアくん、あれを見てもまた『パーティの功績を代表で載せてるだけ』って言うんだよ」
「次の張り出しで十二か月連続です。記録更新の祝いを準備しておきましょう。……それにしても新人への回答が荷物の詰め方とは。最初に覚えるべき基礎を的確に伝えています。さすがです」
私が手帳に書き込むと隣のルカがため息をついた。
「ノアくん、また自分のこと強くないって言ってる」
「兄さんの自己評価は観測開始以来、一度も上方修正されていません。謎です」
兄さんの番が来た。一番右の窓口だ。兄さんはいつも一番右に並ぶ。
栗色の髪の受付嬢が顔を上げて何か言った。兄さんが報告書を差し出す。会話の内容はここからは聞こえない。
私は懐中時計を取り出した。
「何してるの、レゾナちゃん」
「兄さんの報告にかかる時間を計測しています」
途中で兄さんが声を落とした。肩が下がっている。受付嬢は困ったように眉を下げた。それからどこか楽しそうに微笑んだ。
「報告時間、四分十二秒。ほかの探索者の平均より二分ほど長いです」
「受付のポルテさんでしょ? ノアくんの新人時代からの先生なんだって。話が長くなるのも仕方ないよ」
「同感です。業務上の会話にすぎません。それにあの受付嬢は誰にでも優しいと評判です。脅威度はゼロと判定します」
私は手帳を閉じた。本題はこちらだ。
今夜の作戦はすでに立案済みである。条件は三つ。夜。月明かり。二人きり。恋愛小説二十三冊を分析した結果。この条件がそろった場面で男性が想いを告げる確率は九割を超える。
「ルカ。今夜は少し出かけます。先に休んでいてください」
「奇遇だね。わたしも今夜はちょっとお散歩に行くの」
「どちらへ?」
「秘密。レゾナちゃんは?」
「秘密です」
ルカはにっこり笑った。私も笑い返した。卓の上で視線がぶつかる。
誰も何も言わなかった。
報告を終えた兄さんが戻ってきた。顔色が悪い。
「兄さん。顔色が悪いです。……別に心配しているわけではありません。疲労度の数値に異常があるだけです」
私は鞄から疲労回復の薬湯を取り出して兄さんの前に置いた。念のため三本用意してある。
「そうか? 大丈夫だよ。……なあレゾナ」
兄さんは私の隣に腰を下ろして小さな声で続けた。
「もし俺がいなくなったら、レゾナの魔力の安定はどうする?」
心臓が跳ねた。
俺がいなければお前はだめだろう。そう確かめているのだ。これは独占欲の表明。恋愛小説第七巻の第三章と同じ展開だ。
「お兄ちゃん以外では――」
言ってから口を押さえた。咄嗟に昔の呼び方が出てしまった。
「……兄さん以外では安定しません。代わりはいません」
「……そっか。困ったな」
兄さんは天井を見上げてつぶやいた。
困った。つまり私を手放せないということだ。
「そうだレゾナ。魔導院の書類、今年もちゃんと出してくれたか?」
「はい。更新済みです」
「ありがとな。俺はああいう書類が苦手だから助かるよ」
兄さんが伴侶契約の更新に礼を言った。記録しておく。
「ルカ。今の会話を聞きましたか」
「聞いたよ。ノアくんは家族思いだよね」
「家族ではありません。伴侶です」
「え?」
「なんでもありません」
宿に戻った私は帳場の女将に声をかけた。
「女将。今夜、宿の裏庭は空いていますか」
「ええ、空いてますよ。……あら? さっき聖女さまにも同じことを聞かれたわ」
「ルカが?」
「ええ。お散歩の途中で寄るんですって」
散歩の経路の確認だろう。問題はない。
階段を上がるとルカが自分の部屋から顔を出した。
「レゾナちゃん。その手に持ってる本、なあに?」
「恋愛小説第七巻です。今夜の作戦の参考資料……いえ。ただの読書です」
「ふうん。わたしも同じの持ってるよ。第七巻、いいよね。木の下で告白するところ」
「私は月明かりの下で告白する第三章を推します」
二人で黙って見つめ合った。廊下の奥のシルヴィの部屋からは焼いた肉の匂いがしている。それから「ノア……番にして?」という小さな声も。
「……レゾナちゃん。今の、聞こえた?」
「聞こえませんでした。記録もしません」
ルカと私は同時にうなずいた。シルヴィは自分の甘えた声が兄さんと二人きりのときにしか出ていないと信じている。この階の部屋はどれも扉の上に飾りの透かし窓があって声が廊下へ筒抜けなのに。灰の坑道でも耳を撫でられて鳴いていたのに。その誤解は守るべきだというのが私たちの一致した見解だ。
私は部屋に入って鏡の前に立った。
「兄さん。言いたいことがあるなら、聞いてあげます」
素っ気なく。あくまで受け身で。主導権はこちらにある。
「……お兄ちゃん、早く言って」
四回目で本音が出た。練習はここまでにする。
作戦開始は月が東の塔にかかる時刻。勝率は九割を超えている。
……ただ一つだけ気になる。兄さんは宿の前で私たちと別れてもう一度ギルドへ引き返していった。報告の追加だろうか。勤勉なことだ。




