第8話
オフィスに差し込む朝の光が、今の莉奈にとっては鋭利な刃物のように感じられた。
目の奥が熱く、脈打つたびに鈍い痛みが脳を揺らす。
ルミナス・ソフトウェアという社名が、皮肉にしか思えない。ここには光などなく、ただ完璧という名の圧殺的な静寂があるだけだ。
モニターの中では、アルフレッドとアリシアが仲睦まじく手を繋いでいた。莉奈が磨き上げなければならないのは、反吐が出るほど甘ったるい愛の台詞だ。
「アリシア、君のたった一度の微笑みのために、私は王冠さえ捨てよう」
莉奈の指先が微かに跳ねる。
彼女の脳裏にあるのは王冠ではなく、鈍く光る断頭台の刃だ。
微笑みではなく、処刑台へ送られる自分を冷めた目で見つめていた男の、あの空虚な瞳だ。
空調の唸り、同僚たちが叩くキーボードの音。
それらすべてが彼女の心拍と同期し、石で刃を研ぐ「シュ、シュ」という音に変換されて耳の奥で鳴り響く。
デスクの端に置いたマグカップに手を伸ばすが、中身はとっくに空だった。いつ飲み干したのかさえ記憶にない。
震える右手を隠すように、莉奈はデスクの縁を強く握りしめた。
周囲から見れば、彼女は神崎の期待に応え続ける「優秀で寡黙な歯車」でしかない。
だがその内側では、かつて自分を殺した者たちの幸福を自らの手で美しく彩るという、呪いのような矛盾が彼女の魂を少しずつ、確実に削り取っていた。
深夜の自宅でのハッキング、そして昼間の忌まわしい脚本作業。
セレスティアを救うためのコードを書くたびに、莉奈は麻酔なしで自分の傷口を縫い合わせているような錯覚に陥る。
頭痛は激しさを増し、視界の端には常にノイズが走っていた。
壊れるのが先か、救い出すのが先か。
莉奈は、自分でも制御できない速度で、深い闇の淵へと滑り落ちようとしていた。
午前三時。
自宅の静まり返った部屋で、莉奈は凍りついた。
モニターの端で、赤いエラーメッセージが激しい勢いで流れ始めた。
「……そんな、嘘でしょ」
隠しルート「Project_SALVATION」の核心部。
セレスティアの運命を分岐させるトリガーロジックが、正体不明のメモリリークを引き起こしている。
それは「ハイゼンバグ」と呼ばれる、エンジニアが最も忌み嫌う現象だった。
観測しようとデバッガを立ち上げれば消え、目を離せば再び現れてシステムを食い潰す。
このままでは、仮想マシンを突き抜けてルミナスの社内メインサーバーに異常な負荷がかかる。そうなれば、自動監視システムが異常を検知し、莉奈のハッキングの痕跡は白日の下に晒されることになるだろう。
彼女の指は、かつてないほど激しく震えていた。
何度もコードを読み返し、変数の遷移を追いかけるが、疲弊しきった脳は論理の糸を掴むことができない。
モニターの青白い光が、網膜をナイフのように刺す。
キーボードを叩く音が、まるで自分の死を急かすカウントダウンのように聞こえた。
「止まって……お願い、止まってよ!」
叫びは声にならず、乾いた唇から漏れる掠れた吐息になった。
視界が歪み、コードの文字列が蛇のようにのたうち回る。
前世で、何の罪もないのに断罪されたあの瞬間の、逃げ場のない恐怖がフラグメントのように脳内に溢れ出した。
どれだけ正論を積み上げても、権力という名の理不尽に踏み潰されたあの日。
今、その悪夢が「システムエラー」という現代の姿を借りて、再び彼女の首に手をかけている。
莉奈は必死にキーを叩き続けるが、プログラムは嘲笑うようにクラッシュを繰り返し、ついに画面全体が、終わりを告げる深い沈黙に包まれた。
もう、何をしていいか分からなかった。
思考はノイズの海に沈み、論理の糸はズタズタに引き裂かれている。
莉奈は震える手でブラウザを開き、無意識にあの海外技術フォーラムへと逃げ込んだ。
そこだけが、今の彼女にとって現実と地獄を繋ぐ唯一の細い糸だった。
受信ボックスに、一通のプライベートメッセージが届いている。
差出人は『C』
『君のコードが、泣いているように見える』
一通目のその一文に、莉奈の心臓が大きく跳ねた。
『C』は続けて、莉奈が直面していたハイゼンバグの正体――メモリ管理ユニットの競合状態を、魔法のような数行のパッチで鮮やかに解いてみせていた。
だが、莉奈の目を釘付けにしたのは、その高度な技術解説の末尾に添えられた、あまりにも不器用で真っ直ぐな言葉だった。
『完璧なロジックを求めるあまり、自分自身をバグとして切り捨てようとしていないか。コードは嘘をつかないが、書く人間は自分に嘘をつく。君の計算が合わなくなっているのは、君の魂が限界を超えているからだ』
莉奈は、息をすることさえ忘れてその言葉を見つめた。
顔も、名前も、住んでいる場所さえ知らない。
それなのに、画面の向こう側にいる『C』は、今の莉奈がどれほどの孤独と恐怖を背負い、どれほどの重圧の中でキーボードを叩いているのかを、ソースコードの行間から正確に読み取っていた。
提示されたパッチをシステムに流し込むと、あれほど猛り狂っていたエラーメッセージが、嘘のように静まり返っていく。
それはまるで、血を流し続けていた傷口に、温かい包帯を巻かれたような感覚だった。
莉奈はモニターの光で白く飛んだ視界の中で、初めて「独りではない」という感覚を噛みしめていた。
前世でも、今生でも、自分を「一人の人間」として見つけてくれたのは、この匿名の空間にいる、正体不明の技術者だけだった。
画面に並んでいた赤い警告灯は消え、深い藍色の静寂が戻っていた。
『C』のパッチは完璧に動作し、暴走していたメモリは凪いだ湖面のように落ち着きを取り戻している。
莉奈はしばらくの間、キーボードの上に置いた自分の手を見つめていた。
指先の震えは、いつの間にか止まっている。
『C』から届いたメッセージ。その最後の一行を、彼女は何度も、何度も視線でなぞった。
(自分に、嘘をついている……)
彼女は重い瞼を持ち上げ、一言だけ返信を打ち込んだ。
『あなたの言葉に、救われました。もう少しだけ、自分を信じてみます』
送信ボタンを押すと、小さな安堵が胸の奥に広がっていく。
前世で全てを失い、この世界に放り出されてから、ずっと一人で戦ってきた。
誰も信じず、誰も頼らず、ただ復讐のためだけに神経を削り続けてきた莉奈にとって、それは初めて他人に差し伸べた、剥き出しの心の断片だった。
ふいに訪れた睡魔は、これまでの重苦しい現実逃避ではなく、穏やかな休息として彼女を包み込む。
モニターを落とし、椅子にもたれかかると、暗闇の中にぼんやりとセレスティアとクライヴの姿が浮かんだ。
死へと向かう一本道は、今、確実にその形を変え始めている。
「おやすみなさい、『C』……」
静まり返った部屋に、莉奈の小さな独白が溶けて消えた。










