第3話
翌日の昼休み。莉奈は神崎を空いている小会議室に呼び出した。
窓から差し込む昼下がりの陽光は明るく、昨晩の暗い部屋での決意を夢のように感じさせたが、莉奈の胸にある重苦しい塊は消えていなかった。
神崎は面倒くさそうにスマートフォンの画面を眺めながら、莉奈の向かい側に座った。
「……神崎さん、お疲れ様です。昨日のプロットについて、少し提案があるのですが」
莉奈は努めて穏やかな声を出した。これはプロとしての最後の歩み寄りだ。
「悪役令嬢セレスティアについてです。彼女の救済ルート、あるいは生存ルートを、やり込み要素として追加するのはいかがでしょうか。最近のユーザー傾向として、報われない悪役に救いを求める声も多いですし、周回プレイのモチベーションにも繋がると考えます」
技術的な観点、そしてマーケティング的な観点。
莉奈は自らの感情を一切排し、一人のリードプログラマーとして論理的に言葉を紡いだ。
「開発工数については、私が責任を持って調整します。既存のアセットを流用すれば、シナリオの追加だけで実装は可能です」
それは莉奈にとって、せめてもの情けであり、現代のクリエイター同士として対話しようとした最後の一歩だった。
もしここで彼が首を縦に振れば、彼女は社内の正規の手続きの中でセレスティアを救うことができる。
神崎はスマートフォンの画面を閉じ、ゆっくりと顔を上げた。
その口元には、莉奈の真剣な提案を嘲笑うような、歪な笑みが浮かんでいた。
「ははっ、やり込み要素だって? 結城さん、君は本当に冗談が下手だね」
神崎は椅子の背もたれに深く体重を預け、天井を仰ぎながら声をあげて笑った。
その笑い声は狭い会議室に反響し、莉奈の鼓膜を不快に震わせる。
「いいかい、ユーザーが求めているのは『勧善懲悪の爽快感』なんだよ。鼻持ちならない公爵令嬢が泥を啜り、絶望の中で死んでいく。その悲鳴こそが、ヒロインを輝かせる最高のBGMになるんだ。彼女に救いなんて与えたら、作品の純度が濁ってしまう」
「ですが、物語の奥行きを考えれば……」
「奥行き? そんなものは僕が書くテキストの中に十分詰まっているよ」
神崎は莉奈の言葉を遮り、身を乗り出した。
その瞳には、自分の才能に対する独善的なまでの陶酔が宿っている。
「結城さん、勘違いしないでほしい。君の仕事は僕が作り上げた完璧な設計図を、ただ忠実にコードへ書き写すことだ。システム屋が物語の根幹に口を出すなんて、大工が設計士の図面にケチをつけるようなものだよ」
神崎は指先で莉奈のノートPCを軽く叩き、吐き捨てるように続けた。
「君はプログラミングの技術は一流かもしれないが、人の心を描くセンスはゼロだ。余計な感情はバグの元だよ。君はただ、僕が書いた通りにキーボードを叩いていればいいんだ」
神崎にとって、プログラマーは表現者でもパートナーでもなく、自分の妄想を具現化するためのただの便利な「打ち出し機」に過ぎなかった。
莉奈は机の下で拳を固く握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走る。
神崎の言葉は、今の結城莉奈というプログラマーの誇りだけでなく、前世で必死に生きていたセレスティアという一人の女性の存在そのものを、徹底的に踏みにじっていた。
莉奈は、神崎の顔を無感情に見つめた。
彼の瞳に映っているのは、思い通りに従順になった部下の姿だろう。
だが、莉奈の内側では、沸騰していた怒りが急激に冷却され、鋭利な氷の刃へと形を変えていた。
これ以上、この男に言葉を費やすのは時間の無駄だ。
論理の通じない相手に、論理で挑んだ自分が愚かだった。
「……分かりました。余計な提案をして失礼しました」
莉奈は淡々とした口調で告げ、ノートPCを静かに閉じた。
パチン、というラッチの音が、交渉の決裂を告げる弔鐘のように響く。
神崎は勝ち誇ったように鼻を鳴らし、再びスマートフォンの画面に目を落とした。
「分かればいいんだよ。君は優秀なんだから、余計なことを考えずに、最高の『断罪シーン』を組み上げてくれればいい。期待してるよ」
神崎の背中に向かって、莉奈は一礼した。
会議室の重いドアを開け、廊下に出ると、昼休みの喧騒が遠くから聞こえてくる。
彼女の背中には、神崎が一生かかっても到達できないほどの冷徹な反逆の意志が宿っていた。
彼は知らないのだ。
プログラマーが「ただ黙ってキーボードを叩く」時、その指先がどれほど残酷な福音を綴ることができるのかを。
莉奈は自分のデスクへと戻る道すがら、頭の中で複雑なプログラムのツリー構造を組み立て始めていた。
神崎が用意した地獄を、内側から食い破るための「真実」の設計図を。
深夜。
最後の一人が退室し、オフィスの照明が自動的に落とされた。
暗闇の中に、莉奈のデスクに並ぶ三枚のモニターだけが青白い光を放ち、彼女の横顔を無機質に照らしている。
空調の唸り声と、サーバーラックの冷却ファンが立てる遠い唸り。
莉奈は神崎の言った言葉を、頭の中で反芻した。
(黙って、キーボードを叩いていればいい……ええ、その通りにするわ、神崎さん)
彼女の指が動き出す。
それは公式の作業工程には記録されない、管理者権限による深層領域への侵入だった。
彼女はメインサーバーのソースコードの海を潜り、神崎の書く物語が入り込めない、論理のデッドスペースを探し当てる。
そこに、高度に暗号化された隠しディレクトリ「Project_SALVATION」を生成した。
通常、これほど巨大なデータの混入は監査で検知される。
だが莉奈は、それをシステムのエラーログや、未適用の古いパッチファイルに偽装し、既存のコードの隙間にパズルのピースを嵌めるように埋め込んでいく。
キーボードを叩く音は、かつての処刑場で聞いた群衆の嘲笑よりもずっと静かで、それでいて確かな力強さを伴っていた。
今、この瞬間に紡がれる一行一行が、セレスティアという一人の女性を死の運命から救い出すための、唯一の希望の糸となる。
「物語のセンスなんて、私にはいらない」
暗闇の中で、莉奈の唇が微かに動いた。
「私には、あなたの知らない『真実』と、それを形にする技術があるから」
エンターキーを押す音。
暗号化されたゲートが開き、仕様書には存在しない、世界でただ一つの救済ルートが実装され始めた。










