第2話
深夜のコンビニエンスストアの自動ドアが開く乾いた音すら、今の莉奈には耳障りだった。
レジ袋の中でカサリと音を立てる、温められた弁当。
かつての公爵令嬢セレスティアだった頃、食事とは美しく並べられた銀食器と、専属シェフが腕を振るった芸術品のような料理を意味していた。
それが今や、プラスチックの容器に詰められた大量生産の味に変わっている。
莉奈は都内のワンルームマンションへ帰り、玄関の鍵を閉めると同時に、深く重い溜息を吐き出した。
暗い室内で唯一、デスクの上に並んだデュアルモニターだけが待機状態でぼんやりと点滅している。
彼女は電気を点けることもせず、デスクの椅子に深く沈み込んだ。
バッグから取り出したノートPCをドッキングステーションに繋ぐと、モニターが青白い光を放ち、莉奈の蒼白な顔を照らし出す。
会議室から逃げるように帰宅したものの、脳の裏側に焼き付いた「あの日」の情景は、まばたきをするたびに鮮明になっていった。
(落ち着け、これは仕事だ。私はただのプログラマーなんだから)
莉奈は震える手でマウスを握り、社内サーバーへアクセスした。
共有フォルダの中に鎮座する、「セイクリッド・ブーケ」という名のプロジェクトフォルダ。
中には、あのアリシアが微笑み、アルフレッドが気取った顔で立っている立ち絵データが整然と並んでいる。
莉奈は胃の奥からせり上がる不快感を無理やり飲み込み、神崎がアップロードしたばかりの「メインシナリオプロット」というPDFファイルをダブルクリックした。
画面上にスクロールしていく文字の羅列。
それは莉奈にとって、ただの企画書ではなかった。
かつての自分が確かに生き、もがき、そして殺された「人生」の記録。
それが他人の手によって、どう歪められ、どう弄ばれているのか。
莉奈は覚悟を決め、マウスホイールをゆっくりと回し始めた。
青白い光に晒された彼女の瞳は、まるで凍てついた湖のように冷たく澄んでいた。
読み進めるほどに、莉奈の指先は凍りついたように冷たくなっていった。
画面上に並ぶ文字列は、彼女が知る真実を無惨に切り刻み、神崎という男の都合のいい幻想で塗り潰していた。
ヒロイン、アリシア。
企画書には『泥の中に咲く白百合のような、純真無垢な聖女』と記されている。
だが莉奈の記憶にある彼女は、違う。
裏で取り巻きを操り、セレスティアが差し出した救いの手を「いじめ」にすり替え、計算高い涙で男たちの独占欲を煽った毒婦だ。
ゲーム内のシナリオでは、アリシアが庭園で一人泣いているシーンに、こんなト書きが添えられていた。
『彼女の清らかな涙が、頑なだった王太子の心を溶かしていく』
嘘だ。
あの涙は、物陰にアルフレッドがいるのを確認してから流された、最高に質の悪い演技だった。
そして、アルフレッド。
『愛に迷い、真実の光を見出した気高き王子』
莉奈は奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。
記憶の中の彼は、婚約者である自分を一度も信じようとせず、アリシアの甘言に踊らされて公爵家を破滅に導いた、思慮の浅い愚か者でしかない。
そんな男の独善的な振る舞いが、このゲームでは「一途な愛」として全肯定されている。
極め付けは、セレスティアのキャラクター解説だった。
『愛を勝ち取れなかった敗北者。特権階級に胡坐をかき、聖女を虐げた傲慢な悪女』
どのルートのチャートを確認しても、最後に行き着く先は同じだった。
国外追放。魔物による惨殺。そして、公開処刑。
シナリオの分岐点には、冷徹なまでのシステム上の必然として「セレスティアの破滅」が組み込まれている。
彼女がどんなに慈悲を乞おうとも、どんなに無実を訴えようとも、プログラムがその声を拾うことはない。
神崎の書く物語において、セレスティアという存在は、ヒロインの幸福を引き立てるための「生贄」としてしか定義されていなかった。
(……これが、私の生きた証だっていうの?)
莉奈はマウスを握る手に力を込めた。
前世で、公爵令嬢として必死に領民の飢えを救おうとした日々。
不器用ながらも王国の未来を思い、学問に励んだ時間。
それらすべてが「悪女の虚飾」として一蹴され、ただ殺されるためだけに、今この瞬間に再構築されている。
神崎のテキストは、莉奈という一人の人間がかつて確かに持っていた尊厳を、娯楽という名の泥足で踏みにじっていた。
スクロールする指が、ある箇所で止まった。
「終章:断罪の広場」
そこに綴られていたのは、莉奈の首筋に今も残るあの冷たい感触を、言葉という暴力で再現した地獄のような光景だった。
『セレスティアの気高い首が落ちた瞬間、広場は歓喜に包める。その鮮血は聖女の純白のドレスを汚すことなく、むしろ彼女の清廉さを際立たせる舞台装置となる』
神崎のト書きには、さらに吐き気を催すような指示が添えられていた。
「ここでのセレスティアの悲鳴は、できるだけ惨めで、見苦しいものにすること。プレイヤーが日頃のストレスを全て解消できるような、最高のざまぁポイントとして演出してほしい」
莉奈はノートPCのキーボードを、指先が白くなるほど強く叩きつけた。
全身が怒りで沸騰しそうだった。
かつて、あの広場で自分が感じた底知れない孤独。
信じていた人々に石を投げられ、無実を訴える声さえ嘲笑にかき消された、あの絶望。
それを「ストレス解消の道具」として、神崎は一文字いくらの原稿料に変えている。
昔の神崎のテキストには、不器用なキャラクターへの愛があった。
私がこの会社を選んだ理由の一つは、彼の書くシナリオが好きだったからだ。しかし、ヒット作を連発するうちに彼は市場の数字と己のプライドしか見えなくなり、魂を失ったのだ。
首筋に走る幻の痛みが、もはや恐怖ではなく、鋭利な殺意へと形を変えた。
(……いいわ、神崎さん。あなたがこれを最高のカタルシスだと言うのなら)
莉奈の瞳から、弱々しい絶望が消え失せた。
代わりに宿ったのは、システムの深層を覗き込むハッカーのような、冷徹で理知的な狂気だった。
(私の人生も、私の死も、あなたの私物じゃない。一文字たりとも、あなたの思い通りにはさせない)
彼女はマウスを掴み、社内リポジトリの深い階層へとカーソルを滑らせた。
そこには、神崎が触れることのできない、論理と数式だけで構築された莉奈だけの聖域がある。
絶望の臨界点を超えた彼女の心には、もはや「仕様書通りに作る」という選択肢は存在しなかった。
莉奈はゆっくりと、ノートPCのモニターを閉じた。
パタン、という乾いた音が、静まり返ったワンルームの室内に空虚に響く。
部屋は一瞬にして深い闇に包まれたが、莉奈の視界には、先ほどまで見ていた真っ赤な「断罪シーン」の残像がこびりついて離れなかった。
呼吸を整えようと深く息を吐き出すが、肺の奥に溜まった怒りは熱を帯びたまま、一向に冷める気配がない。
かつての自分を殺し、今の自分を愚弄する物語。
だが、莉奈はもう、暗闇の中で震えて立ちすくむだけの令嬢ではなかった。
彼女は再び、今度はデスクトップPCの電源ボタンに指をかけた。
複数のモニターが次々と覚醒し、莉奈の顔を青白く、だが力強く照らし出す。
彼女が立ち上げたのは、公式の開発環境ではなく、ローカルに構築された隔離済みのサンドボックス環境だった。
キーボードを叩く音が、静寂を切り裂く。
管理者権限。ソースコードの深層。
神崎がどれほど巧みな言葉で表面を飾ろうとも、その下で動く論理を支配しているのは自分だ。
「神崎さん。あなたが愛と呼ぶそのシナリオを、私が底から作り変えてあげる」
莉奈は呟き、メインエンジンの核心部分に一本のフックを仕込んだ。
それは、特定の条件が満たされた時にだけ発動する、運命の裏口。
誰にも望まれず、誰にも用意されなかった、セレスティアのための「真の救済」を実装するための第一歩。
深夜の暗闇の中、莉奈の指先はかつてないほど正確に、そして冷徹にコードを紡ぎ始めた。










