第18話
役員会議室の空気は、先ほどまでの刺すような冷たさから、どこか打算的な湿り気を帯びたものへと変わっていた。
机の上に置かれた莉奈の辞職願を前に、社長は短く咳払いをし、手元の資料を整えた。
「結城さん。君の言い分は理解した。そして、このゲームが君の独断による……失礼、君の尽力によって未曾有の成功を収めていることも、否定できない事実だ」
莉奈は無言で先を促した。
彼らが次に口にする言葉が、謝罪でも賞賛でもなく、単なる後始末のための取引であることを、彼女は最初から見抜いている。
「会社としては、君のコンプライアンス違反を不問に付すことはできない。これは組織としての規律の問題だ。……だが、同時に君が会社にもたらした莫大な利益を無視することも、また不誠実だと考えている」
組織の面子を守りつつ、自分たちが制御できないほどの才能を、遺恨を残さず穏便に排除する。
莉奈の瞳には、彼らの浅ましい逡巡がすべて透けて見えていた。
彼女にとって、この会社はもう使い古された開発環境と同じだ。
「話を聞きましょう」
莉奈の静かな一言が、取引の開始を告げる合図となった。
社長が差し出してきた一枚の書面には、私の年収の数倍に及ぶ数字が記されていた。
特別功労金、および退職合意金。
その名目はどうあれ、本質は明白だった。
会社を救ったことへの報酬。そして、この「救済ルート」の正体が末端のプログラマーによる独断であったという不名誉な事実を、墓場まで持っていくための口止め料だ。
「君の身勝手な行動で現場が混乱した。その責任を取る形で、あくまで自主退職という形式を貫いてもらいたい。その代わり、会社はこの金額で君の『成果』を正当に評価する用意がある」
社長の言葉を、私は冷めた心で咀嚼する。
数千万円という大金。それは、一般的な会社員がおいそれとは手に入れられない、一つの「自由」の形だった。
これがあれば、当分の間、私は自分の好きな場所で、誰の顔色もうかがわずにコードを書くことができる。
前世のセレスティアは、どれほど国のために尽くしても、最後にはすべてを奪われ、処刑台という冷たい報酬しか与えられなかった。
そう思えば、現世の不条理など可愛いものだ。
「わかりました。その条件で結構です」
私は迷うことなく、提示された書類に署名した。
役員たちの顔に、安堵の色が広がる。
彼らは私がこの成功にしがみつき、地位や名声を要求することを恐れていたのだろう。
だが、今の私にはそんなものは必要なかった。
神崎という男を無様に引き摺り下ろし、セレスティアという魂に安らぎを与えた。
プログラマーとして、そして一人の人間として、私の仕事はもう終わっている。
万年筆を置き、顔を上げると、そこにはもう「末端の使い捨て要員」としての私は存在していなかった。
私は一人の自由な人間として、この息の詰まる部屋から解き放たれる権利を、自らの手で勝ち取ったのだ。
エレベーターを降りてオフィスフロアに戻ると、そこには奇妙な静寂が広がっていた。
デスクの端で、神崎が段ボール箱に私物を詰め込んでいるのが見えた。
かつての自信に満ちた背中は見る影もなく、湿った紙屑のように丸まっている。
彼のデスク周辺だけが、まるで時間が止まったかのような絶望の色に染まっていた。
通り過ぎる際、神崎が掠れた声で何かを呟いているのが聞こえた。
「俺の……俺の最高傑作だったんだ……あんなバグさえ、あんな女さえいなければ……」
その言葉を聞いても、不思議と怒りは湧いてこなかった。
かつて自分を地獄に突き落とした男の無様な姿。
それを目にすれば、どれほどの愉悦に浸れるだろうかと想像していたこともあった。
けれど、今の莉奈の心にあるのは、ただの「無」だった。
神崎という男は、彼女にとって、もはや修正の終わった古いソースコードの一部に過ぎない。
セレスティアとしての無念も、莉奈としての孤独な作業も、すべてはあの隠しルートのコードの中に結晶となって閉じ込められている。
物語は完結したのだ。
莉奈は自分のデスクに向かい、愛用していたマグカップと私物を小さな鞄に詰めた。
キーボードを叩く音、空調の唸り、同僚たちのひそひそ話。
それらすべてが、遠い異世界の出来事のように感じられた。
神崎という「バグ」は排除され、システムは正常化された。
莉奈は、一度も神崎の方を振り返ることなく、静かに席を立った。
彼を憎む必要さえなくなった自分に、彼女は少しだけ驚き、そして深い安堵を覚えた。
ビルを出ると、夕暮れ時の冷たい風が莉奈の頬を撫でた。
背負ったカバンの中には、長年使い古したキーボードと、わずかな私物しか入っていない。
数千万という大金が振り込まれる予定の口座よりも、今この瞬間の、肺いっぱいに吸い込める自由な空気が、何よりも得難い報酬に感じられた。
駅へと続く人混みの中を歩きながら、莉奈はふと空を見上げる。
かつての自分は、処刑台から見上げる空が、人生で一番美しいと思っていた。
けれど、今は違う。
誰に強制されることもなく、自分の足で歩き、自分の意思で未来を選べる。
その当たり前の事実に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「セレスティア、もういいんだよ」
莉奈は心の中で、自分の中にいたもう一人の少女に、優しく声をかけた。
復讐も、救済も、すべては終わった。
物語の幕は下り、ここからは彼女自身の、誰にも書き換えられない現実が始まる。
莉奈は、夕日に照らされた雑踏の中へ、迷いのない足取りで踏み出していった。










