第19話
窓から差し込む陽光が、真新しいフローリングを白く焼き、微かな木の香りを部屋中に広げている。
かつての、空調の唸りとキーボードの打鍵音だけが響く窓のないオフィスとは、何もかもが違っていた。
莉奈は、数千万という退職金を惜しみなく注ぎ込み、この小さな雑居ビルの一室を借りた。
場所は都心の喧騒から少し離れた、街路樹が美しい静かな通り。
壁一面の大きな窓からは、季節の移ろいを感じることができる。
入り口のドアの横に掲げられた小さなプレートには、スタジオ・セレスティアという文字が刻まれている。
それは、あの日自分が救い出した魂の名前であり、これから自分が紡いでいく物語の原点となる名前だ。
莉奈は、自分専用のデスクに座り、まだ何も入っていないワークステーションの電源を入れた。
冷却ファンが小さく回り始め、モニターに真っ白なデスクトップが表示される。
もう、誰かの顔色を窺ってコードを書く必要はない。
自分のロジックを、自分の信じる美しさを、ただ純粋に形にするための場所。
莉奈は深く息を吸い込み、新生活の始まりを告げる最初のキーを叩いた。
スタジオの運営は、想像以上に孤独な作業の連続だった。
一人の自由は素晴らしいが、より壮大で、人々の魂に深く入り込むような物語を作るには、信頼できるパートナーが必要だ。
莉奈は、自身のブログや開発者向けのコミュニティを通じて、リードエンジニアの募集をかけた。
条件は技術力だけではない。コードの向こう側に、誰かを救いたいという祈りを込められる人間。
多くの応募書類が届いたが、そのほとんどは効率や実績だけを並べ立てた無機質なものだった。
そんな中、莉奈は一通の履歴書に指を止めた。
そこには、彼女がかつて『Salvation』の深層に隠したはずの設計思想と、驚くほど似通った哲学が記されていた。
技術は、誰かを絶望から引き上げるための手であらねばならない。
その言葉を目にした瞬間、莉奈の胸に不思議な温かさが広がった。
この人間なら、自分の作ろうとしている世界の意味を分かってくれるかもしれない。
莉奈は、確信に近い予感を抱きながら、その人物に面接の招待を送った。
約束の時間は午後二時。
莉奈は、窓から差し込む光を背に受けながら、入り口のドアをじっと見つめていた。
自分の城を作ると決めてから、今日が初めての本格的な面接だ。
履歴書に書かれたあの真摯な言葉の主は、一体どんな人物なのだろうか。
期待と、わずかな不安が、胸の奥で小さく波立っている。
時計の針がちょうど重なった時、控えめだが力強いノックの音が三回、静かな部屋に響き渡った。
「はい、どうぞ」
莉奈が声をかけると、ドアノブがゆっくりと回り、扉が開かれた。
逆光の中に、一人の青年の影が浮かび上がる。
「失礼します。本日、面接に伺った者です」
落ち着いた、それでいてどこか聞き覚えのある、芯の通ったテナーの声。
莉奈は無意識に息を止め、立ち上がっていた。
彼が歩み寄り、光がその横顔を照らし出す。
その瞬間、莉奈の思考は白く塗り潰され、すべてのロジックが崩壊した。
そこに立っていたのは、幻ではなかった。
整った顔立ち、誠実さを湛えた双眸。そして、かつて処刑台へ向かうセレスティアを最後まで見守り、ただ一人「私は、あなたを信じています」と告げてくれた、近衛騎士クライヴその人の生き写しだった。
莉奈は、机を掴む指先が白くなるほどに力を込める。
言葉が出ない。喉の奥が熱くなり、視界が滲みそうになるのを必死で堪えた。
「……結城、莉奈、さん?」
青年は、莉奈の異変に気づいたのか、少し心配そうに彼女の名を呼んだ。
その声の響きまでもが、記憶の中にある騎士のものと重なり合う。
「あ、すみません。……どうぞ、そちらに」
莉奈は震える声を整え、対面の椅子を指し示した。
青年は「失礼します」と一礼して腰を下ろすと、真っ直ぐに莉奈の瞳を見つめた。
「履歴書を拝見しました。……素晴らしい設計思想ですね」
「ありがとうございます。……実は、あなたの書かれたコードのサンプルも拝見しましたが、驚くほど……私の理想に近いものでした」
二人の視線が交差する。
そこには、初めて会ったはずの二人とは思えない、魂の奥底で共鳴し合うような確信があった。
彼が私と同様に、前世で近衛騎士クライヴとして過ごしていたのか、その記憶を持っているのか、それはまだ分からない。
けれど、運命は確かに、最悪の終わりを迎えたはずの二人に、二度目の物語を与えてくれたのだ。
莉奈は、窓から差し込む夕日に照らされた彼の顔を見つめ、静かに、しかし深く微笑んだ。
新しい人生。新しいスタジオ。
そして、かつて失った最愛の騎士との再会。
莉奈の真の物語は、今、ここから始まろうとしていた。










