第16話
「セイクリッド・ブーケ」の売上曲線は、もはやグラフの枠を突き抜けていた。
発売直後は「凡作」として低迷していた数字が、あの深夜の配信を境に垂直上昇を始めたのだ。
ルミナス・ソフトウェアの役員室には、異様な熱気と、それ以上に重苦しい沈黙が同居していた。
「……素晴らしい。当初の予測を三倍も上回る数字だ」
役員の一人がタブレットを置き、満足げに頷く。
だが、その視線の先にあるのは、プロデューサーである神崎への賞賛ではなく、困惑だった。
「神崎君。この『隠しルート』について、事前に報告がなかったのはどういうことかね? 演出としても、あまりにリスクが高すぎるのではないか」
神崎は、額に滲む汗を拭うこともせず、引きつった笑みを浮かべた。
「……サプライズですよ。昨今のユーザーは賢い。ありきたりな仕掛けでは満足しない。だから、あえて極限まで隠蔽し、爆発力を狙ったんです。すべては私の計算通りですよ」
その声は、かつての自信に満ちた傲慢な響きを失い、どこか必死な言い訳のように聞こえた。
会議室に並ぶ同僚たちの冷ややかな視線が、神崎の皮膚をチクチクと刺す。
現場の人間たちは知っていた。
神崎が、部下のコード一行すらまともに把握していないことを。
そして、この熱狂を生み出している「真の核」が、彼の書いた甘ったるいシナリオとは対極にある、凄絶なまでの執念で書かれたものであることを。
神崎は、自分の手柄だと世界に宣言しなければならないという強迫観念に駆られ、乾いた喉を鳴らした。
だが、彼が強弁すればするほど、室内の温度は反比例するように下がっていく。
手に入れたはずの成功が、まるで劇薬のように、神崎の立場をじわじわと侵食し始めていた。
神崎のプライドは、スマートフォンの画面をスクロールするたびに、薄いガラスのように砕け散っていった。
ネット上に溢れているのは、彼が「最高傑作」と自負した本編への、容赦のない酷評の嵐だ。
「本編のシナリオ、あまりに典型的な乙女ゲーすぎて途中で投げそうになった。隠しルートを見つけた有志に感謝しかない」
「聖女アリシアのキャラ付けが薄すぎて笑う。それに比べて、隠しルートのあの圧倒的な重厚感は何? ライター別人だろこれ」
「神崎プロデューサーのインタビュー読んだけど、あんな浅い感性の人間にこの救済ルートが書けるとは思えない。真の天才がチーム内に隠れてるはずだ」
神崎は、指先の震えを止めることができなかった。
自分がこれまでに築き上げてきた「天才クリエイター」という虚像が、皮肉にも、自分が名前を奪い続けてきた「幽霊」の仕事によって、真っ向から否定されている。
売上は確かに神崎の実績として積み上がっていく。だが、称賛の声はすべて、彼の手の届かない場所にいる「誰か」へと向けられていた。
ふと顔を上げると、フロアの隅で莉奈が淡々とバグ修正の作業を続けているのが見えた。
彼女は一度もこちらを見ない。勝ち誇るような視線も、軽蔑の色もない。
ただ、そこに存在しないかのように、徹頭徹尾「プログラマー」としての役割に徹している。
その静かな佇まいが、今の神崎には、どんな罵倒よりも残酷な嘲笑に感じられた。
神崎はデスクの下で拳を握りしめ、血が滲むほどに爪を食い込ませる。
自分が無能だと認めることは、死ぬよりも難しかった。だが、世界は残酷なほど正確に、彼と莉奈の間に横たわる、埋めようのない才能の深淵を暴き出していた。
深夜のオフィス。誰もいなくなったフロアで、神崎は唯一、自分のデスクだけを不気味な光で照らしていた。
モニターに映し出されているのは、社外秘である「セイクリッド・ブーケ」の最終ソースコード。
神崎は血走った眼で、莉奈が「Project_SALVATION」と名付けたディレクトリの深層を暴こうとしていた。
「……なんだ、これは。どうしてこんなところで、このフラグが呼ばれている……?」
彼は自称・天才プロデューサーだが、その実態は過去の資産を食いつぶし、部下に丸投げすることで地位を築いてきたハリボテだ。
莉奈が幾層にも及ぶ論理で構築した、精密な時計仕掛けのようなコード。
それは、既存のゲームエンジンを極限までハックし、物理演算とシナリオフラグを高度に同期させた、一種の芸術品だった。
神崎が数行読み進めるたびに、彼のプライドは音を立てて剥落していく。
変数の定義一つ、条件分岐の組み方一つに至るまで、そこには莉奈の──かつてのセレスティアが地獄で培った執念と、現代の莉奈が手に入れた冷徹な技術が結晶していた。
彼が「欠陥」と呼んでいたコードこそが、システム全体を支える真の背骨であり、彼が「無駄」と切り捨てたリソースこそが、世界を救うための唯一の回路だった。
「……わからない。理解できない!」
神崎は掠れた声で叫んだ。
自分が「無能な歯車」として見下していた小娘が、自分には一生かかっても到達できない高みで、独り、神の如き緻密さで世界を再構築していた。
その圧倒的な才能の差を、文字列という逃れようのない現実として突きつけられ、神崎の精神は限界を迎えた。
──ガシャンッ
凄まじい衝撃と共に、モニターが火花を散らして沈黙する。
神崎は手に持っていた灰皿を、自分を嘲笑う鏡のような黒い画面に叩きつけていた。
暗転した部屋の中で、彼は自分の無価値さを証明する粉々になった液晶の破片を見つめ、無様に震え続けていた。
砕けたモニターの奥から、くぐもった電子音が漏れている。
神崎は、暗闇の中で力なく椅子に沈み込んだ。
スマートフォンの通知は、今この瞬間も絶え間なく続いている。
「神崎さん、おめでとうございます! 異例のヒットですね」
「隠しルートの反響がすごいです。業界誌がインタビューを申し込んでいますよ」
そんな、皮肉に満ちた祝辞の数々。
彼らは知らないのだ。神崎が、自分の作ったはずのゲームに仕込まれた「真実」を、今も何一つ理解できていないことを。
ネット上では、神崎の過去の作品までが掘り返され、「やはりこの男にあのルートは書けない」「ゴーストライターがいるのは確実だ」という冷酷な検証が始まっていた。
「真の天才は、誰だ」
その問いかけが、呪いのように神崎を追い詰めていく。
一方で、莉奈は翌朝、いつも通りにオフィスへ現れた。
彼女は自分のデスクに置かれた新しいタスクを淡々とこなし、神崎の惨状には一瞥もくれない。
もはや、彼を断罪する必要すらなかった。
世界が、市場が、そして莉奈が紡いだ圧倒的な「論理」が、神崎という男を物語の舞台から引き摺り下ろしたのだ。
神崎の名前は、売上の記録には残るだろう。
だが、人々の記憶に残るのは、名前も知らない一人のクリエイターが遺した、あの残酷で美しい救済の物語だけだ。
莉奈は窓の外、広がる青空を見上げ、一口のコーヒーを飲んだ。
彼女の胸に去来するのは、復讐の味ではなく、ただ、清々しいまでの静寂だった。










