16・黄昏時に思いを馳せて
何もかもが闇に閉ざされているとファオは思った。チアノが行使した奇跡による強烈な光を直視したせいで、一時的に失われた視界のことだけではない。
荒事に対処する為に雇われているのに、肝心要の大捕り物で、あれだけの大失態を演じたのだ。もしかしたら、チアノから奉仕人の役目を解かれるかもしれない。お先真っ暗とは、まさに今の状態を指していうのだろう。
この心の落ち着かなさに反比例して部屋は静まり返っていた。他の者達は既に帰宅したらしく、呟きの一つも許されなさそうな部屋の静寂が、彼女に対して沈黙を強いている様で、心に負担がかかる。
思わず大声をあげて、我が身に降りかかった不幸を嘆きたいところだが、他の部署の者に立ち聞きされる恐れがあるので、この胸の蟠りは鬱積され溜め込まれていく。
この何時、弾けるのかわからない感情は、包帯の隙間から射し込む、ほのかに感じる心地よい夕陽の温かさにより、なんとか押し留められていた。
静寂を破るかのように靴音が近づいてくるのが聞こえた。
誰だろう?他の部屋に向う者だろうか?この狂気を孕みかけた静寂から逃れれるのならば、それが何者の足音であろうが、ファオにとっては誰でも良かった。無言の圧力を強いる静寂より、幾分か救いがあった。
ファオは、心の中で足音が少しでも長く続いて欲しいと願うが、その願いも虚しく、足音は無慈悲にも、この部屋の前で途絶えた。
(ついにきたか・・・わざわざ御苦労なことで)
チアノだろうか?彼女が部屋に戻ってきたということは、多分、自らの口で解雇を告げる為に自分を探していたのだろう。
こうなることは微塵も考えていなかった訳ではないが、実際、このような事態に直面してしまうと、緊張で体が強張り、生唾を嚥下してしまう。ファオの喉から、押し潰した苦鳴の様な低い喉音が聞こえ、部屋に響いた。
足音の主、アルシアは夜班に引継ぎが終わり、部屋に戻ると息を呑んだ。そこに居る筈のない者がいたからだ。
皆が帰り、片付いた部屋には、頭に包帯を巻いたファオが、独り何かに耐え忍ぶかのように身体を強張らせて机に座っていた。なにを怯えているのか、彼女を安心させる為に、優しく、そっと歩み寄り、声をかける。
「まだ残ってたの?」
ファオは、一瞬、肩を震わせた後、緊張が解けたのか怒らせた肩の力が抜けた様にみえた。
(驚かせちゃったかな?)
彼女に負担をかけたことに、ほんの少しだけ罪悪感を持ちながらも、何時もとは違う、小動物の様なファオの反応が可愛くて仕方が無いので、アルシアは少し悪戯を楽しんでしまった。
そんな自分だけしか知らないファオの姿を視界に捕えつつ、ちょっとでも雰囲気を明るくしようと、アルシアは機嫌良く鼻歌を唄いながら、両手に抱えた書類束を机の上に置いた。
「今、ちょうど夜勤のヤン隊長へ、引継ぎが終わったとこなの」
ファオは、こちらの視線に気がついているのか、まるで窓の向う景色を見るかのように、くるりと背を向けた。
「・・・ごめん」
少し俯いた顔から、低い力無い声がボソリと呟かれる。
「大丈夫よ。そんなに大きそうな魔物じゃなかったし。ヤン隊長がしとめちゃうかも?」
「・・・うん」
「けど、間に合って良かった。それとも待ってたの?・・・ねぇ、聞いてる?」
「・・・ん」
「いつまで付けてるの?」
アルシアはファオの両目を覆うの包帯をほどいていく。そこには全てを拒絶しているかのように両の眼を閉ざしている、少しいじけたファオの顔が露になった。
「さ、事件も終わったし、みんなで飲みにいくんでしょ?」
包帯を束ねて片付けながらアルシアが語りかける。
「なんか、行きたくない・・・」
ファオは窓の向こうを見つめながら素っ気なく答えた。
「ね、一緒に行きましょうよ。みんな待ってるから・・・」
アルシアは母親が子供を慰め諭すかのように優しく後ろから抱きしめた。
「ん・・・なんか気がのらない・・・」
だが、ファオの答えも姿勢も微動だにしない。アルシアは慈母の様にファオの頭を癒す様に撫でながら、ファオが見つめる光景を見やり
「ねぇ夕陽、綺麗」
茜色の空に、地平線の向うへ続く鱗雲が、まるで新しい地平へと続く。その光景は、二人の、まだ見ぬ未来への街道に思えた。
「うん・・・しばらく、このままでいてもいい?」
そのファオの問いかけに答えはなく、いや、答える必要がなかった。暫くそのままの姿勢で、二人は夕陽に見入った。
部屋に差し込む落陽の緩やかな陽射しの向こうには港があり、異国からやってきた船が係留されているのがみえる。この海の向うに二人が一緒に生きていける未来があるのだろうか?そんな思いがアルシアの口をつく
「何時か、この海むこうで普通に一緒になれたら・・・」
「うん・・・」
ファオは力ない返事で返すが、今までの返答より、行く分か明るさを含んだ返事だった。その心には確信が満ちていた。
(やっぱり無理だ。私は一人じゃ生きていけない。アルシアがいないと)
少し前まで考えていた、アルシアへの邪険な思いが、今、思い出せば恥ずかしい。このまま黙っておこうか?いや、それは自分が許さなかった。どうやって謝ろう?そう思考し、一つの結論に達するまで時間はかからなかった。
陽は、もう落ちかけ部屋は薄暗くなり、部屋には二人しかいないのだから。
「ねぇ」
ファオは意を決して後ろに振り向く
「なぁに」
呼びかけに答えながらアルシアは、ファオの顔を見つめ返す。アルシアは小躍りしそうになった。ファオの表情から、これから起こることがわかったからだ。
ファオが立ち上がり、アルシアの右肩に左手を置く――
突如!拳で木製の扉を、軽やかな音程で、二、三度叩く音が部屋に響きわたった。
驚く二人が振り返ると、チアノが機嫌良さげな、にこやかな表情で入ってきた。
「なーに黄昏てんの?お二人さん」
そのまま二人の方へと歩み寄る。
「あ・・・」
二人は顔がひきつりらせながら、同時に声を漏らした。
今までのやりとりを扉越しに聞かれていたのかもしれない。長い間、隠し通してきた二人の秘密が、ついに白日の下に晒されたのかと、二人の顔が青ざめていく・・・
チアノは傍まで来ると、二人の反応なんぞ、どこ吹く風とばかりに
「さ、明日から、お偉いさんの警備だから、しばらく飲みに行けなくなるわよ!」
と、やや酒臭い息で二人に言った。
しばらくの部分に、安心できないものがあるのかファオは恐る恐る聞き返す。
「・・・こっ、これから、どこにいくんですか?」
「花売り小路の雪割り亭、二人とも待ってるわよぉ~あ、それにさ」
チアノは不安げなファオの顔をみつめてニヤリと笑い。
「こんどは天下のチアノ様がお客様なんだから、文句は言わせないからね」
「ミチェットから聞いたんですか!?」
「聞いた聞いた。雪割り亭のオイルサーディンが美味しいって話をね」
チアノ、呆然としている二人の顔を交互に笑顔でみやった後
「じゃお先~」
片手を振って部屋を出て行った。その足取りは、我慢していたのか、それとも酔いがまわってきたのか、若干、おぼつかなげだった。
チアノが部屋を出て行ってから、少して、ファオとアルシアは同時に安堵の溜息をし、互いに見つめあい微笑みあう。二人の気持ちは同じだ。
「けど、大丈夫かしら?少し酔ってたみたい。もし、転びでもしたら」
ハッと我に返って立ち上がるファオ。そうならないようにするのも奉仕人の務めじゃないのかと気がついたのだ。間髪いれず、チアノの後を追駆ける。
「待って!待ってくださいよ!チアノさんのオゴりなんですよね!」
そう叫びながら出て行くファオを見送ると、アルシア、ふぅと一息ついた後、あらゆる柵から解放された今日一番の笑顔を浮かべながら立ち上がり
「やっぱりチアノさんにはかなわないな」
と、観念したかの様に一言呟くと、部屋の出口に向かい、ゆっくり歩みだす。
思えば今日は心底疲れる日だった。しかし、それも自業自得。勝手にファオを奪われると勘違いした自分が恥ずかしくなった。
チアノはファオだけのことを考えて動いてるわけではない。この班、全員のことを考えて動いている。もちろんアルシアを含めてだ。
部屋を出て、誰もいない廊下を独りで歩いていると、色々なことを思い出し、恥ずかしさが頂点に達してしまった。
恥ずかしさが頂点に達した彼女は、外へ出ると、雪割り亭へと続く道すがら、自分の心に対する照れ隠しの鼻唄を奏ではじめる。
やがて、街を行き交う人々の視線も気にせず不器用な舞い足を刻みながら皆の後を追っていった。その足取りはとても幸せそうだった。
終わり




