鍵のある実験場
温室の床に、白墨で丸が六つ描いてあった。
丸の中には、小さな字で名前が書いてある。父上、母上、マルグリット様、エドガー兄上、ユリウス兄上、師匠。外は雪だったが、温室の中は春の手前くらいに温かく、硝子の内側に細かい水の粒がびっしりついていた。
「丸の中から出ないでね。そこからだと、いちばんよく見えるから」
レオが言うと、ユリウスが自分の丸を見下ろして顔をしかめた。
「なんで俺だけ、植木の陰なんだ」
「兄上は背が高いから、そこからでも見えるんだって。図を描いて確かめた」
フェリクスが脇に抱えた紙を広げてみせた。温室を上から見た図に、六つの丸と、そこから伸びる細い線が引いてある。それぞれの丸から、何が見えて何が隠れるか。秋の旗取りのあと、二人で温室を何十周も歩いて描いたものだった。
母は「母上」と書かれた丸の真ん中に立ち、腕を組んで、にやにやしていた。一番前の、いちばん棚に近い丸だった。
「始める前に、一つだけ」
レオは脚立の前で、家族に向き直った。
「春に、鉢の縁に青い光が出たでしょ。あれはまだ出せない。何回やっても出ないんだ。だから今日は、雨だけ」
言ってしまうと、少し肩が軽くなった。光を期待されたまま失敗するより、先に言っておくほうがずっといい。
「雨だけで十分よ」と母が言った。「早く降らせなさい」
*
最初は紅鈴草の鉢の上の雨だった。春の朝と同じ、枕ひとつぶんの雲から、ぱた、ぱたた、と葉を叩く雨。マルグリットが小さく「まあ」と声をもらした。
二つ目はフェリクスの台の上の雨。風の輪に出口を一つだけ残し、雲を糸のように細く伸ばしてみせる。台を指で押すと、糸の向きもついてくる。エドガーが身を乗り出して、植木の陰からユリウスが「見えない」と文句を言った。
三つ目は母のための雨だった。
石の台に、両腕で抱えるほどの大皿を置く。その上に大皿と同じ幅の雲を広げた。底を冷やす。
ざあっ、と音がした。
雨が幕になって落ちた。大皿の端から端まで、白く細い糸が隙間なく並んで、硝子越しの雪明かりを受けて光っている。皿の水面が一面に跳ね、小さな冠みたいな形がいくつも浮かんでは消えた。
母が丸から半歩はみ出した。
「母上、丸。丸から出てる。半分くらい」
「分かってるわよ。……でも、ちょっとだけ」
母は大皿の前にかがみこんで、雨の幕に耳を近づけた。目を閉じている。レオは雨の音が途切れないように、底の冷たさを少しずつ足していった。
砂時計が落ちきったところで、レオは雨を止め、順番に術をほどいた。火、冷たさ、最後に風の輪を外側から。
大皿の水面に残っていた粒が、すうっと動きだした。
皿の片側へ、寄っていく。家族の立っている、入り口のほうへ。
「……あ、待って」
レオは大皿に手をかけ、粒が寄りきる前に、皿を半周回した。
粒はくるりと向きを変えなかった。皿が回っても、やっぱり入り口のほうへ寄っていく。皿の向きではなく、温室の中の何かが、粒を引っぱっている。
「見て。消したあとでも、水がまだ流れてる。春に鉢の縁で見たのと同じ。たぶん、入り口から冷たい風が入ってくるほうに寄ってるんだ」
レオは息を吸った。
「それで、これが、光が出ない理由かもしれない。温室の中だと、扉も硝子も人も全部、空気を動かしちゃう。どれのせいで流れが残るのか、ここだと分からない」
オルウェン師匠が、自分の丸の中で腕を組んだ。
「では、レオ。続けるなら、何が要る?」
レオはフェリクスから、もう一枚の紙を受け取った。
王宮の西の塔の裏にある、使われていない干し場の図だった。四角い地面を、低い板の囲いでぐるりと仕切ってある。人が立つ場所は、囲いの外に三つだけ。水路からは遠く、硝子も木もない。
「外で、いろんな境目を比べたいんだ。風の強いところと弱いところ、乾いたところと湿ったところ。それに、ここなら光がもっと大きく出ても、誰も近くにいない」
父が紙を受け取り、しばらく眺めた。
母が、大皿の前にしゃがんだまま言った。
「レオ。春に光が出た日と、今日とで、何が違うの?」
残念だったわね、とは言わなかった。レオは少し考えて、指を折った。
「鉢が素焼き。朝で温室が冷えてた。それに、人が少なかった。母上とフェリクスと師匠だけ」
「三つも違うのね。それは、外でも比べられる?」
「比べられる。一個ずつなら」
母は父を見上げた。父は紙を丁寧に巻き、オルウェンに渡した。
「干し場の使用を許す。管理はオルウェン殿に任せる。鍵は――そうだな」
父は少しだけ口の端を上げた。
「春の一月十日に渡そう。冬の間は、この温室で記録を積みなさい」
*
冬は長かった。
レオは毎朝、温室で雨を降らせ、消し、粒がどちらへ寄るかを書いた。風の強さ、扉が開いていたかどうか、皿の材料。光は一度も出なかった。手帳は三冊目、フェリクスの寸法帳は二冊目に入った。
春の一月十日、十歳の誕生日の朝。
朝食の席で、父が小さな鉄の鍵をレオの皿の横に置いた。革紐が通してある。その革紐の端に、赤い鈴の形の飾りが一つ、ぶら下がっていた。
「紐は、私が結んだのよ」と母が言った。「紅鈴草の色。なくさないように」
レオは鍵を首にかけた。ちりん、と小さく鳴った。
干し場は、思っていたよりずっと風が強かった。
いつものように湯気を上げ、風の輪で囲い、雲を作る。作った端から、雲がちぎれた。北から吹いたかと思えば、次の瞬間には西から。塔の壁に当たった風が跳ね返って、四方から好き勝手に吹きこんでくる。
レオは風の輪を強くした。雲は少しもつ。でも、底が冷えない。もっと強くした。腕が震えだし、雲は輪の内側でぐるぐる回って、雨にならないまま消えた。
「温室なら、一発でできるのに」
レオは地面に座りこんだ。
「全部、風で囲っちゃえばいいのかな。屋根もつけて、壁も全部」
「それでは、温室をもう一つ作るのと同じです」
フェリクスは囲いの板をこんこん叩いた。膝くらいの高さの、低い板だ。
「外で比べたいと言ったのは、レオです」
「……言った。言ったけどさ」
レオは空を見上げた。塔の上で、旗竿の旗が東へなびいている。地面の近くの草は、西へ倒れている。上と下で風の向きが違う。
――丘で、セシリアは影の向きを先に測っていた。
「フェリクス、紐ある? 細いの、たくさん」
フェリクスが工房室から持ってきたのは、台を縛るのに使う麻紐だった。二人はそれを短く切って、囲いの板のあちこちに結びつけた。紐の先が風にふらふらなびく。北の板の紐は南へ、西の角の紐はくるくる回っている。
レオはしばらく、紐を眺めていた。
それから、囲いの中で、紐がいちばん揺れていない場所を探した。東の板の内側、角から三歩のところ。塔の影と低い板に守られて、そこだけ風が淀んでいる。窪地の影みたいに。
フェリクスがそこへ、台を運んだ。レオは風の輪を、さっきの半分の強さで回した。逆らうのではなく、もともと淀んでいる場所に、少しだけ壁を足すつもりで。
雲はちぎれなかった。
小皿の上に、ぽつ、ぽつ、と三粒だけ雨が落ちた。
「降った」
「降りましたね。今日は、私も濡れていません」
「温室の、十分の一くらいの力で降った」
レオは自分の手のひらを見た。指先まで、しびれ一つない。
夕食の鐘が鳴る前に、二人は干し場を出た。鍵をかけると、首の鈴がちりんと鳴った。
レオはまっすぐ食堂には行かず、母の部屋の前で足を止めた。扉の脇の窓辺に、もう一つの紅鈴草の鉢がある。一番の予約札の鉢だ。
レオは廊下の水差しを取って、根元にそっと水をやった。ただの水やりだった。
「あら、庭師の仕事を取ったわね」
部屋の中から母が顔を出した。誕生日の夕食のために、髪を上げている。
「まだ、外でちゃんと降らせられないから。今日は三粒だけだった」
「三粒も降ったの。私なんて、外で雨を降らせたことは一度もないわよ」
母は窓辺の鉢を見下ろした。
「一番の札は、まだ有効よ。期限は書いてないもの」
レオは水差しを抱えたまま、うなずいた。
干し場の雲の境目は、内側からではよく分からなかった。どこで温かい空気と冷たい空気が分かれているのか、見えないまま手探りしている。外から見られたらいいのに、と思った。境目が、霜の線みたいに目に見えたら。
――霜の線。
「母上、ごはん、ちょっと遅れていい?」
「駄目よ。今日は誰の誕生日だと思ってるの。主役が遅れたら、蝋燭が先に溶けちゃうわ」
「じゃあ明日。明日、師匠に霜を借りに行く」




