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雷鳴の王子と四大剣流 ~雨の理屈を解いた王子は、雷の剣で剣帝へ登りつめる~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 小さな雨と失った日

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次も呼んでほしい

霜の箱は思ったよりきれいだった。

 干し場の台の上に、オルウェン師匠が作った箱がある。手で抱えられるくらいの大きさで、壁も天井も、羽根模様の霜でできていた。春の日差しを受けて、白く、ところどころ虹色に光っている。

「この中で雲を作ったら、光が外に逃げないと思うんだ」

 レオは箱の前で、両手をこすり合わせた。

「春の光は、出たと思ったらすぐ消えた。だから、閉じこめておけば、もっと長く見られる」

「なるほど」

 師匠は、なるほど、としか言わなかった。こういうときの師匠は、たいてい何か知っていて黙っている。

 霜の壁に開けた小さな口から、湯気を入れる。中で風を回し、底を冷やす。霜の箱の中に、白い雲がもくもくとふくらんでいくのが透けて見えた。

「いいぞ、いいぞ……」

 雲がふくらむ。もっとふくらむ。箱の内側いっぱいになっても、まだふくらむ。熱がどこにも逃げないのだ。霜の壁が、内側からじわっと汗をかきはじめた。

「師匠、これ、壁が汗かいてる」

「うん。かいているね」

「止めたほうがいい?」

「たぶんね」

 止めるより先に、箱の天井が抜けた。

 ばしゃあっ、と雨が降った。霜の箱に溜まっていた水が、ぜんぶいっぺんに。台の上の小皿は水に沈み、レオは頭から、師匠は胸から下が、びしょ濡れになった。囲いの外でフェリクスが帳面を頭の上にかざしていた。

 しばらく、水の垂れる音だけがした。

「……光、出た?」

「出なかったね」

 師匠は濡れた研究着の裾を絞りながら、楽しそうに言った。

「熱の行き先を全部ふさぐと、こうなる。私も若いころ、同じことをして研究室の天井に雲を貼りつけた」

「先に言ってよ。天井に雲って、絶対面白いやつじゃん」

「言ったら、レオは自分で見なかっただろう」

 セシリアにも同じことを言われた気がする。レオは濡れた前髪をかき上げた。


 師匠は箱の残りを溶かし、小皿の縁にだけ、霜の線を細く一周させた。髪の毛ほどの、白い糸の輪だ。

「閉じこめるのではなくて、境目に目印を置こう。温かい空気が触れたところから、霜が溶ける」

 もう一度、小さな雲を作る。

 霜の輪が溶けはじめた。右の縁が少し、左の奥が少し、ばらばらに。雲の温かいところと冷たいところの境目が、霜の溶け方で、縁の上に浮かびあがっていく。

「見える……」

 上から見ているレオには、縁の変化がはっきり分かった。でも、皿の裏はどうなっているのか。消したあとの水がどこへ流れるのか。皿の裏側の水滴は、上からは見えない。

「透明な板を買えば、下から見えます」とフェリクスが言った。「ただ、一枚で私の帳面の三か月分です」

「高っ。帳面三か月って、焦がした卵なら何個ぶん?」

「数えたくありません。それに、鏡を置いても曇ります。昨日試しました」

 フェリクスは少し考えてから、台の下に潜りこんだ。皿の裏側の真下に、細い溝を彫った板を置く。皿の裏に溜まった水滴が、溝を伝って、一か所から落ちるようにした。

 ぽと。

 ……ぽと。

 ぽと。

 フェリクスは地面に横になり、溝のすぐ横に耳を寄せて、砂時計をひっくり返した。

「間隔、数えます。上は見ないので、合図だけください」


 それから何十回も、同じ雲を作った。

 レオが上から霜の溶け方を言い、フェリクスが下から水音の間隔を言う。師匠はそれを全部、同じ紙の上に並べて書いていく。

 十九回目に、レオは風の輪を少しだけ強くした。

「――止まりました」

 台の下から、フェリクスの声。

「水音が、全部いっぺんに止まりました。さっきまで、ぽと、ぽとと続いていたのが」

 レオは皿の縁を見た。霜の線が、一か所だけ、細く細く溶けていた。熱が抜けていく道が、そこだけ糸みたいに細くなっている。

「風を強くすると、熱の抜ける道が細くなる。で、細くなったら、下の水が止まる……」

 レオは手帳を開いて、春からずっと書いてきた一行を、線で消した。

 ――光は閉じこめれば長く出る。

 その下に新しく書いた。

 ――熱を抜いたあとに残る流れが、細いときだけ、何かが変わる。

 それから、ページの端に、もう一行。

 ――水音の観測、フェリクス。

 台の下から這い出してきたフェリクスの頬に、溝の泥が筋になってついていた。


  *


 初夏になって、条件がそろってきた。

 小皿。霜の輪。風の輪は出口を一つ。熱を抜く道を細くするところまで、何度やっても同じように持っていける。光はまだ出ない。でも、あと少しのところまで来ている気がした。

 そんなとき、母から短い手紙が届いた。

 ――明日の午後、軍務の合間に寄ります。十五分だけ。一番の予約者より。

 レオはその手紙を三回読み、それから、干し場の図に大きな丸を描き足した。

「大皿でやる。小皿の雲じゃ、母上、遠くから見えないもん。春の大皿の雨、あれくらい大きく」

 フェリクスが台の側面を指さした。自分で彫った字がある。

 ――小皿一枚まで。

「大きくするなら、それは別の実験です。今の条件は、小皿でしか確かめていません」

「でも十五分しかないんだよ。小さいのじゃ、すごいって分かんないだろ」

「レオ、聞いてください」

「大皿は石の台に置くから、フェリクスの台は使わない。それならいいだろ」

 フェリクスは何か言いかけて、口を閉じた。帳面を開いて、今日の欄に何か書いた。何を書いたのか、レオは見なかった。


 翌日の午後、母は本当に十五分しかいられない格好で来た。

 軍装の上着を肩にかけ、腰に剣を下げたまま、囲いの外の「母上」と書いた場所に立つ。後ろには伝令が一人、母の次の予定を書いた板を抱えて控えていた。

「さあ、見せてちょうだい」

 レオは石の台の大皿の上に、大きな雲を広げた。

 雨の幕が降りた。冬の温室のときと同じ、白い糸を並べたような雨。母が「わあ」と言った。

 ここからだ。霜の輪を大皿の縁に一周。風を強くして、熱の抜ける道を細く――

 細くならなかった。

 大皿の縁は長すぎて、霜の線があちこちでばらばらに溶けていく。右を細くすれば左が太くなり、左を押さえれば奥が崩れる。小皿なら指先で触るように調えられたものが、大皿では腕を広げても届かない。

「もうちょっと……」

 レオは風を強めた。さらに強めた。

 指先がじんとしびれてきた。腕の内側がつったように痛い。雨の幕が乱れ、大皿からあふれた水が台を伝って足元に広がる。

「レオ。止めなさい」

 師匠の声だった。打ち合わせておいた、休止の合図。

「まだ――」

「止めなさい」

 レオは手を下ろした。雲がばらばらと崩れ、大皿の上に、ただの水たまりが残った。


 息が苦しい。母の顔が見られなかった。

 今日しかなかったのに。十五分しかなかったのに。母は次の予定に行ってしまう。そうしたら、母の中のレオは、大皿を水びたしにして止められた子のままだ。

 顔を上げると、母は囲いの外で、小さな革の帳面を開いていた。伝令が抱えている予定の板とは別の、母が自分で持ち歩いている予定帳だった。

「次は……来週は駄目ね。北の詰所の視察。その次の週の、三日目の朝なら空くわ。いいえ、早いほうがいいわね。ベルナルトと当番を代わってもらえば」

「母上、あの」

「なに。今、あなたの次の席を探してるところ」

「今日、何も見せられなかった」

「雨は見たわよ。きれいだった」

 母は予定帳から顔を上げずに言った。

「それに、まだ途中なんでしょう。途中のものを見るのも、楽しいのよ。次も呼んでちょうだい。私、一番の予約者なんだから」

 伝令が控えめに咳払いをした。母は予定帳をぱたんと閉じた。

「時間ね。――レオ、休みなさい。腕が震えてるわ」

 母は上着を羽織り直し、手を一度だけ振って、干し場を出ていった。成功するまで待っている、とは言わなかった。


  *


 レオは台の脇に座りこんで、しばらく腕を揉んでいた。

 フェリクスが黙って水筒を差し出した。レオは受け取って、半分飲んだ。

「……小皿で、やる」

 フェリクスは何も言わずに、台の上の水を拭きはじめた。

 フェリクスの台に小皿を載せる。霜の輪。風の輪は出口を一つ。熱を抜く道を細く。何十回もやったとおりに。

 台の脇に、フェリクスが新しい物を吊るしていた。細い木の枠から、絹糸で、麦わらを一本ぶら下げてある。麦わらの先は、皿の縁から指一本ぶんのところで止まっていた。

「なにそれ。釣り竿?」

「針です。今朝作りました。風なら、麦わらは全体が流されます。それ以外の何かがあれば、先だけ動くかもしれないと思って」

 レオは、母が来る前にフェリクスが帳面に何か書いていたのを思い出した。

 術をほどく。火を落とす。冷たさを解く。風の輪を、外側から――

 皿の縁の水が、最後の一筋、すうっと消えた。

 その瞬間、麦わらの先が、ぴくりと皿のほうへ揺れた。

 風はなかった。囲いの紐はどれも垂れていた。それなのに麦わらの先だけが、見えない指でつつかれたみたいに、縁に引き寄せられて、戻った。

「……今の」

「見ました」

 フェリクスの声が、少しかすれていた。

 レオは麦わらを見つめた。胸の中で、二つのものが同時にふくらんでいた。母が帰ってしまった悔しさと、今の、ぴくりという揺れ。どちらも大きすぎて、どちらを先に感じたらいいのか分からなかった。

 レオは手帳を開き、昨日書いた「大皿」の丸を自分で線を引いて消した。

「明日の朝、今のと全部同じでやる。一個も変えない」

「一個も、ですか」

「皿も、霜も、風も、時間も。麦わらの長さも」

 その晩、レオは母に手紙を書いた。ごめんなさい、と書きかけて、やめた。代わりに、母から届いた手紙の裏に、大きな字で一行だけ書いた。

 ――次も呼ぶ。今度は小さいのを見て。


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