次も呼んでほしい
霜の箱は思ったよりきれいだった。
干し場の台の上に、オルウェン師匠が作った箱がある。手で抱えられるくらいの大きさで、壁も天井も、羽根模様の霜でできていた。春の日差しを受けて、白く、ところどころ虹色に光っている。
「この中で雲を作ったら、光が外に逃げないと思うんだ」
レオは箱の前で、両手をこすり合わせた。
「春の光は、出たと思ったらすぐ消えた。だから、閉じこめておけば、もっと長く見られる」
「なるほど」
師匠は、なるほど、としか言わなかった。こういうときの師匠は、たいてい何か知っていて黙っている。
霜の壁に開けた小さな口から、湯気を入れる。中で風を回し、底を冷やす。霜の箱の中に、白い雲がもくもくとふくらんでいくのが透けて見えた。
「いいぞ、いいぞ……」
雲がふくらむ。もっとふくらむ。箱の内側いっぱいになっても、まだふくらむ。熱がどこにも逃げないのだ。霜の壁が、内側からじわっと汗をかきはじめた。
「師匠、これ、壁が汗かいてる」
「うん。かいているね」
「止めたほうがいい?」
「たぶんね」
止めるより先に、箱の天井が抜けた。
ばしゃあっ、と雨が降った。霜の箱に溜まっていた水が、ぜんぶいっぺんに。台の上の小皿は水に沈み、レオは頭から、師匠は胸から下が、びしょ濡れになった。囲いの外でフェリクスが帳面を頭の上にかざしていた。
しばらく、水の垂れる音だけがした。
「……光、出た?」
「出なかったね」
師匠は濡れた研究着の裾を絞りながら、楽しそうに言った。
「熱の行き先を全部ふさぐと、こうなる。私も若いころ、同じことをして研究室の天井に雲を貼りつけた」
「先に言ってよ。天井に雲って、絶対面白いやつじゃん」
「言ったら、レオは自分で見なかっただろう」
セシリアにも同じことを言われた気がする。レオは濡れた前髪をかき上げた。
師匠は箱の残りを溶かし、小皿の縁にだけ、霜の線を細く一周させた。髪の毛ほどの、白い糸の輪だ。
「閉じこめるのではなくて、境目に目印を置こう。温かい空気が触れたところから、霜が溶ける」
もう一度、小さな雲を作る。
霜の輪が溶けはじめた。右の縁が少し、左の奥が少し、ばらばらに。雲の温かいところと冷たいところの境目が、霜の溶け方で、縁の上に浮かびあがっていく。
「見える……」
上から見ているレオには、縁の変化がはっきり分かった。でも、皿の裏はどうなっているのか。消したあとの水がどこへ流れるのか。皿の裏側の水滴は、上からは見えない。
「透明な板を買えば、下から見えます」とフェリクスが言った。「ただ、一枚で私の帳面の三か月分です」
「高っ。帳面三か月って、焦がした卵なら何個ぶん?」
「数えたくありません。それに、鏡を置いても曇ります。昨日試しました」
フェリクスは少し考えてから、台の下に潜りこんだ。皿の裏側の真下に、細い溝を彫った板を置く。皿の裏に溜まった水滴が、溝を伝って、一か所から落ちるようにした。
ぽと。
……ぽと。
ぽと。
フェリクスは地面に横になり、溝のすぐ横に耳を寄せて、砂時計をひっくり返した。
「間隔、数えます。上は見ないので、合図だけください」
それから何十回も、同じ雲を作った。
レオが上から霜の溶け方を言い、フェリクスが下から水音の間隔を言う。師匠はそれを全部、同じ紙の上に並べて書いていく。
十九回目に、レオは風の輪を少しだけ強くした。
「――止まりました」
台の下から、フェリクスの声。
「水音が、全部いっぺんに止まりました。さっきまで、ぽと、ぽとと続いていたのが」
レオは皿の縁を見た。霜の線が、一か所だけ、細く細く溶けていた。熱が抜けていく道が、そこだけ糸みたいに細くなっている。
「風を強くすると、熱の抜ける道が細くなる。で、細くなったら、下の水が止まる……」
レオは手帳を開いて、春からずっと書いてきた一行を、線で消した。
――光は閉じこめれば長く出る。
その下に新しく書いた。
――熱を抜いたあとに残る流れが、細いときだけ、何かが変わる。
それから、ページの端に、もう一行。
――水音の観測、フェリクス。
台の下から這い出してきたフェリクスの頬に、溝の泥が筋になってついていた。
*
初夏になって、条件がそろってきた。
小皿。霜の輪。風の輪は出口を一つ。熱を抜く道を細くするところまで、何度やっても同じように持っていける。光はまだ出ない。でも、あと少しのところまで来ている気がした。
そんなとき、母から短い手紙が届いた。
――明日の午後、軍務の合間に寄ります。十五分だけ。一番の予約者より。
レオはその手紙を三回読み、それから、干し場の図に大きな丸を描き足した。
「大皿でやる。小皿の雲じゃ、母上、遠くから見えないもん。春の大皿の雨、あれくらい大きく」
フェリクスが台の側面を指さした。自分で彫った字がある。
――小皿一枚まで。
「大きくするなら、それは別の実験です。今の条件は、小皿でしか確かめていません」
「でも十五分しかないんだよ。小さいのじゃ、すごいって分かんないだろ」
「レオ、聞いてください」
「大皿は石の台に置くから、フェリクスの台は使わない。それならいいだろ」
フェリクスは何か言いかけて、口を閉じた。帳面を開いて、今日の欄に何か書いた。何を書いたのか、レオは見なかった。
翌日の午後、母は本当に十五分しかいられない格好で来た。
軍装の上着を肩にかけ、腰に剣を下げたまま、囲いの外の「母上」と書いた場所に立つ。後ろには伝令が一人、母の次の予定を書いた板を抱えて控えていた。
「さあ、見せてちょうだい」
レオは石の台の大皿の上に、大きな雲を広げた。
雨の幕が降りた。冬の温室のときと同じ、白い糸を並べたような雨。母が「わあ」と言った。
ここからだ。霜の輪を大皿の縁に一周。風を強くして、熱の抜ける道を細く――
細くならなかった。
大皿の縁は長すぎて、霜の線があちこちでばらばらに溶けていく。右を細くすれば左が太くなり、左を押さえれば奥が崩れる。小皿なら指先で触るように調えられたものが、大皿では腕を広げても届かない。
「もうちょっと……」
レオは風を強めた。さらに強めた。
指先がじんとしびれてきた。腕の内側がつったように痛い。雨の幕が乱れ、大皿からあふれた水が台を伝って足元に広がる。
「レオ。止めなさい」
師匠の声だった。打ち合わせておいた、休止の合図。
「まだ――」
「止めなさい」
レオは手を下ろした。雲がばらばらと崩れ、大皿の上に、ただの水たまりが残った。
息が苦しい。母の顔が見られなかった。
今日しかなかったのに。十五分しかなかったのに。母は次の予定に行ってしまう。そうしたら、母の中のレオは、大皿を水びたしにして止められた子のままだ。
顔を上げると、母は囲いの外で、小さな革の帳面を開いていた。伝令が抱えている予定の板とは別の、母が自分で持ち歩いている予定帳だった。
「次は……来週は駄目ね。北の詰所の視察。その次の週の、三日目の朝なら空くわ。いいえ、早いほうがいいわね。ベルナルトと当番を代わってもらえば」
「母上、あの」
「なに。今、あなたの次の席を探してるところ」
「今日、何も見せられなかった」
「雨は見たわよ。きれいだった」
母は予定帳から顔を上げずに言った。
「それに、まだ途中なんでしょう。途中のものを見るのも、楽しいのよ。次も呼んでちょうだい。私、一番の予約者なんだから」
伝令が控えめに咳払いをした。母は予定帳をぱたんと閉じた。
「時間ね。――レオ、休みなさい。腕が震えてるわ」
母は上着を羽織り直し、手を一度だけ振って、干し場を出ていった。成功するまで待っている、とは言わなかった。
*
レオは台の脇に座りこんで、しばらく腕を揉んでいた。
フェリクスが黙って水筒を差し出した。レオは受け取って、半分飲んだ。
「……小皿で、やる」
フェリクスは何も言わずに、台の上の水を拭きはじめた。
フェリクスの台に小皿を載せる。霜の輪。風の輪は出口を一つ。熱を抜く道を細く。何十回もやったとおりに。
台の脇に、フェリクスが新しい物を吊るしていた。細い木の枠から、絹糸で、麦わらを一本ぶら下げてある。麦わらの先は、皿の縁から指一本ぶんのところで止まっていた。
「なにそれ。釣り竿?」
「針です。今朝作りました。風なら、麦わらは全体が流されます。それ以外の何かがあれば、先だけ動くかもしれないと思って」
レオは、母が来る前にフェリクスが帳面に何か書いていたのを思い出した。
術をほどく。火を落とす。冷たさを解く。風の輪を、外側から――
皿の縁の水が、最後の一筋、すうっと消えた。
その瞬間、麦わらの先が、ぴくりと皿のほうへ揺れた。
風はなかった。囲いの紐はどれも垂れていた。それなのに麦わらの先だけが、見えない指でつつかれたみたいに、縁に引き寄せられて、戻った。
「……今の」
「見ました」
フェリクスの声が、少しかすれていた。
レオは麦わらを見つめた。胸の中で、二つのものが同時にふくらんでいた。母が帰ってしまった悔しさと、今の、ぴくりという揺れ。どちらも大きすぎて、どちらを先に感じたらいいのか分からなかった。
レオは手帳を開き、昨日書いた「大皿」の丸を自分で線を引いて消した。
「明日の朝、今のと全部同じでやる。一個も変えない」
「一個も、ですか」
「皿も、霜も、風も、時間も。麦わらの長さも」
その晩、レオは母に手紙を書いた。ごめんなさい、と書きかけて、やめた。代わりに、母から届いた手紙の裏に、大きな字で一行だけ書いた。
――次も呼ぶ。今度は小さいのを見て。




