雷の最初の一筋
夜明けの干し場には、まだ誰の足跡もなかった。
囲いの板に結んだ麻紐は、どれもだらりと垂れている。風がない。塔の影が地面の上に長く伸びていた。昨日と同じ時刻、昨日と同じ影の長さだった。
レオは首の鍵を外して、門の錠を開けた。ちりん、と鈴が鳴った。
「まず、合図を決めよう」
オルウェン師匠が、囲いの外で言った。袖をまくった研究着。髪はまだ寝ぐせがついている。
「私が右手を上げたら、レオは術を止める。理由は聞かない。止めてから聞く」
「うん。手が上がったら止める。理由はあとで」
「レオが『止める』と言ったら、フェリクスは台から離れる。皿に触らない」
「はい。台から三歩、ですね」
「それから、レオ」
師匠は少しだけ声を落とした。
「何か出ても、驚いて全部を一度に切らないこと。ほどく順番は昨日と同じ。火、冷たさ、風。それだけ決めておけば、あとは好きにやっていい」
レオはうなずいた。言われなくても分かっているつもりだった。でも、師匠がわざわざ言うのだから、たぶん、分かっていても間違えるものなのだ。
フェリクスの台に、小皿を載せた。
皿の縁の右側に、銅の切れ端を一つ。左側の、手のひら一つぶん離れた台の上に、もう一つ。どちらもグレタの店の端材箱から買った、爪ほどの銅のかけらだ。二つのかけらのそばには、絹糸で吊るした麦わらが、一本ずつ下がっている。
「今日は、大きい光はいらない」
レオは自分に言い聞かせるように、声に出した。
「右のかけらと左のかけらで、同じことが同時に起きたら、それでいい。一回だけでいい」
フェリクスは台から三歩離れた地面に、うつ伏せになった。顔の前に二本の麦わら。耳の横に、皿の裏から水を落とす溝。手元に砂時計。
「いつでも」
師匠は囲いの外で、紙と墨壺を膝に載せていた。
レオは息を吸った。
*
湯気を上げる。細く、昨日と同じ高さまで。
風でくるむ。輪は出口を一つ。昨日と同じ向きに。
底を冷やす。小皿の上に、枕の半分くらいの雲が浮かんだ。霜の輪が縁でゆっくり溶けはじめる。
「ぽと、ぽと、と鳴っています」
台の下から、フェリクスの声。
ここまでは何十回もやった。
風を少しだけ強める。熱の抜ける道を、細くしていく。霜の線が、一か所だけ糸みたいに細く溶けていく――
雲が崩れた。
皿の上で、水の粒がばらばらとこぼれる。雨というより、こぼした水だった。冷やしすぎたのか、風がずれたのか。
レオの指がぴくりと動いた。もっと強く。もっと風を。押さえこめば、まだ間に合う――
昨日の、大皿の上の水たまりが頭に浮かんだ。震えた指。師匠の上げた手。
レオは強めかけた風を戻した。
雲の大部分をそのまま崩れるに任せた。追いかけない。その代わり、皿の縁の、細い風の輪だけを残した。熱の抜ける道は、まだ縁の一か所に、糸のように通っている。
「水音、まだ続いています。少し速いです」
冷やすのを止めなかった。
いつもなら、ここで冷たさを解く。雨を止めて、ほどく順番に入る。でも今日は、冷たさを解く手を、わざと遅らせた。皿の上には冷えた空気が残り、縁の外には、さっき抜けかけた熱が残っている。冷たい内側と、温かい外側。そのあいだに細い道が一本だけ。
レオは、その道の先を、皿の外へ向けて開いた。
熱が逃げた。
ちりっ、と音がした。
青白い線が、右の銅のかけらから、左の銅のかけらまで、まっすぐに走った。
春の鉢の縁で見た光より、ずっと明るかった。髪の毛一本どころか、麦わらくらいの太さの、ぎざぎざに折れ曲がった光の線が、皿の縁を飛び越えて、手のひら一つぶんの空気を渡った。瞬きより短く、でも確かに、目の奥に焼きついた。
鼻の奥に知らない匂いが残った。夏の夕立が来る直前の、あの匂いに似ていた。
――出た。
レオの両手が勝手に跳ね上がりかけた。全部切ってしまいたかった。何もかも止めて、かけらに飛びついて、触って確かめたかった。
「順番」
囲いの外から、師匠の声がした。手は上げていない。ただ、一言だけ。
レオは歯を食いしばって、跳ね上がりかけた手を、宙で止めた。
火を落とす。
冷たさを解く。
風の輪を、外側から、ゆるめる。
皿の上に、薄い雲の名残と、こぼれた水だけが残った。麦わらは二本とも、静かに垂れていた。
干し場がしんとした。
「――右の麦わら、揺れました」
台の下から、フェリクスの声がした。いつもより早口だった。
「左も揺れました。同時です。光ったのと同じときです。水音も、そのとき一度だけ、止まりました」
レオは台に駆け寄った。
右の銅のかけらの端に、針で突いたくらいの黒い点が一つ、ついていた。左のかけらにも、同じような点が一つ。爪でこすっても取れない。焦げていた。
「両方、焦げてる」
レオは台の縁をつかんだまま、かけらから目を離せなかった。
「両方だよ。右と左、両方。離れてるのに。同じときに」
師匠が囲いの中に入ってきた。膝をついて、二つのかけらを交互に見て、それから自分の紙を見た。紙の上には、光の走った向きが、矢印で描いてあった。右から左へ。
「私の目で見た向きと、フェリクスの麦わらの揺れた順番と、焦げの場所。三つとも合っている」
師匠は顔を上げた。
「偶然ではないね。レオが、狙って出した」
レオは息を吐いた。
吐いたら、止まらなくなった。
「――出たあっ!」
干し場に声が響いた。塔の壁に跳ね返って、もう一回聞こえた。レオは両手を振り上げて、その場でぐるっと一回転した。それから振り向いて、地面から起き上がったばかりのフェリクスに、両手を突き出した。
フェリクスは一瞬だけ迷ってから、自分の両手を勢いよく打ちつけてきた。
ぱちん、と大きな音がした。手のひらがじんと痺れた。さっきの光より、ずっと痛かった。
「痛っ」
「すみません。加減が分かりませんでした」
「いいよ! もう一回!」
ぱちん。フェリクスの頬が、泥の筋の下で赤くなっていた。笑っているのだと、レオは少し遅れて気づいた。この相棒が、口を開けてこんなふうに笑うのを、たぶん初めて見た。
*
「師匠、これ、雷だよね?」
師匠は紙に何か書き足しながら、すぐには答えなかった。
「空から落ちる雷と、同じものかどうかは分からない。大きさも、出し方も、まるで違う。火と水と風を、三つとも同時に合わせて出した光なんて、私の知っているどの本にもない」
墨壺に筆を浸す。紙の一番上に、師匠はていねいな字で書いた。
――未知の創成、候補。
「でも」と師匠は続けた。「君たちがこれを雷と呼ぶのを、止める理由もないね。少なくとも、匂いは嵐の前と同じだった」
「雷だ」
レオはフェリクスを見た。
「雷ですね」
フェリクスがうなずいた。
三人とも、しばらく台の前から動かなかった。
レオは銅のかけらを指でつまんで、朝日にかざした。黒い点。裏返して、また表。それから右のかけらと左のかけらを並べて、焦げの大きさを比べた。右のほうがほんの少し大きい。光は右から出て、左へ行った。だから右のほうが大きい。たぶん。
「こっちのほうが大きいよね」
「さっきも言いました」
「何回言ってもいいだろ」
フェリクスは自分の帳面に、二つのかけらの絵を描いていた。焦げの点を本物と同じ大きさで。描き終わると、しばらく眺めて、もう一度描き直した。
師匠は、もう一度やってみろとは言わなかった。
「腕を休めて、朝ごはんを食べておいで。二回目はそれからだ。今の一回と同じかどうかは、間を空けてやってみないと分からない」
レオは自分の腕を見下ろした。指はしっかり動く。でも、手首の内側が、熱いお湯に浸けたあとみたいにじんじんしていた。
「……休む。お腹も空いてきたし」
「よろしい。お腹が空いたと言えるうちは、まだ大丈夫だ」
朝ごはんは、詰所の裏の竈で、フェリクスが卵を焼いた。
今日の卵は、一つも焦げていない。二人とも雷の話をしていたのに、フェリクスは一度も木べらを置かなかった。
二回目は昼前にやった。雲を作り、崩れても追わず、冷たさを遅らせ、熱の道を外へ開く。
ちりっ。
光はさっきより細かった。麦わらも、右の一本だけが揺れた。それでも、左のかけらには、また小さな焦げの点が一つ増えていた。
師匠は紙に、二回目の結果を一回目の横に並べて書いた。
――二回目。細い。左の麦わら、揺れず。焦げ、両方。
昼の鐘が鳴ると、レオは焦げた銅のかけらを二つ手のひらに握って、干し場を飛び出した。
練兵場では、近衛の昼前の調練が終わりかけていた。砂の上に兵士たちが並び、その前で、母が木剣を下げて何か号令をかけている。
レオは柵に飛びついた。
「母上!」
兵士たちが一斉に振り向いた。母は振り向かなかった。号令の続きを最後まで言い切った。兵士たちが礼をして、散っていく。
それから母はゆっくりとこちらを向いた。
「調練中に大声を出さない」
「出た!」
レオは柵の上に身を乗り出して、握っていた手を開いた。焦げた銅のかけらが二つ、手のひらの上で光っていた。
「雷、出た! 狙って出した! 二回!」
練兵場がしんとした。
ベルナルトの眉が、ぴくりと動いたのが見えた。
母はレオの手のひらを、遠くからじっと見ていた。それから、木剣を、空に向かってまっすぐ突き上げた。
勝ちどきのときの構えだった。兵士たちがわっと声を上げた。誰も事情を知らないのに、母が剣を上げたから、みんな上げた。
「見せなさい!」
母の声が練兵場の端まで通った。
「ちゃんと見られる日を、札に書いて持ってきなさい。一番の席よ。分かった?」
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